第16章 如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)その1



寿量品
寿量品(じゅりょうほん)において真実の教えに入る



我(われ)、仏を得てより来(このかた) 経(へ)たる所の諸(もろもろ)の劫数(ごうしゅ)、無量百千万億載阿僧祇なり。常に法を説いて無数億の衆生を教化して、仏道に入らしむ。爾(それ)より来(このかた)、無量劫なり。
衆生を度(ど)せんが為の故(ゆえ)に 方便して涅槃を現(げん)ず。 而(しか)も実(じつ)には滅度(めつど)せず、常に此に住して法を説く、我、常に此に住すれども、諸(もろもろ)の神通力を以って 顚倒(てんどう)の衆生をして、近しと雖(いえど)も而(しか)も見えざらしむ。


◎如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)の課題

「法華経」の第16品は「如来寿量品」といわれる。
如来とは仏のことであるから、仏の寿命は無限であり、永遠の生命であることを説いたのがこの「如来寿量品」である。
普通、仏である釈尊は今から二千五百年ほど前にインドで生まれて仏教を説き、八十歳で入滅された方といわれているが、釈尊がこの世に出現されたのは単なる偶然ではなくて、無限の過去の深い因縁によって、この世に現れたのであることを明らかにするのがこの、如来寿量品である。昔から如来寿量品でもっとも重要な教えは「開近顕遠」(かいごんけんのん)と「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)と「開権顕実」(かいごんけんじつ)であるといわれる。

まず「開近顕遠」(かいごんけんのん)とは、「近きを開いて遠きを顕(あらわ)す」ということである。釈尊がこの世に現れたことは、二千五百年以上も前のことであるが、われわれ人類の前に人間としての姿を現して教えをお説きになった事実を(ごん)というのである。遠いということは、釈尊がこの世姿をお現しになるはるか昔ということである。近い事実は釈尊の出世(しゅっせ)であり、遠い因縁は無限の過去ということになる。「開近顕遠」(かいごんけんのん)とは「近きを開いて遠きを顕す」ことであるから、釈尊の出世という近い目に見える事実を通して、無限の過去にひそむ遠い因縁を明らかにすることである。かくして釈尊がこの世に現れた本当の意味を理解することができる。

次の「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)とは、「迹(しゃく)を開き本(ほん)を顕(あらわ)す」ことである。(しゃく)とは形に現れた仏のことで、釈迦仏、多宝如来、阿弥陀如来などのことであり、本(ほん)とは根本の目に見えない仏である。人間の目に見えるように、形を顕した仏が迹で、目に見えない仏がである。迹とは現れたということで、本とは隠させた本元のもの、ということである。「迹を開き本を顕す」とは、現れた仏を深く研究して、その根本である永遠の仏を知ることである。

なぜわれわれは永遠の仏を知る必要があるのか。それは、この世に仮りに姿を現した釈尊はやがて入滅されたわけであり、そうなると、仏というものを単に一時の存在にすぎなくなる。われわれが本当の信仰をもつためには、永遠に存在する仏というものが、絶対の仏というものがなくてはならない。単に仮りもの、一時的の仏であれば確信をもって信じることはできなくなる釈尊という方は永遠の仏の生命を具現(ぐげん)した方であるのだ、というように理解することによって信仰が確固不動のものとなる。そのためこの寿量品においては「迹を開いて本を顕す」ということを説くのである。

第三の「開権顕実」(かいごんけんじつ)というのは、「権(ごん)を開いて実(じつ)を顕す」ことである。(ごん)とは仮りの教え、方便(ほうべん)の教えということである。方便の教えを手がかりとして、真実の教えに入ることが「開権顕実」ということである。「方便品」以来、今までずっと説いてきたのは方便の教えであり、今や、この「寿量品」において真実の教えに入るのだということが、「開権顕実」ということである

以上、述べた三つの「寿量品」の教えの大切なこと、「開近顕遠」 「開迹顕本」 「開権顕実」を一つにまとめていえば、「開顕」(かいげん)ということになる。仮りの教えを開いて真実を顕(あらわ)すことが、今やこの「寿量品」の課題となった。

次回に、つづく。


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第16章 如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)その2



寿量品2
如来の秘密神通の力とは、宇宙の生命そのもの
 


◎如来の真実の言葉

「寿量品」の冒頭は、仏があらゆる菩薩と一切の大衆に何ごとかをお告げになることからはじまる。それは、

諸(もろもろ) の善男子(ぜんなんし)、汝等当(なんだちまさ)に如来の誠諦(じょうたい)の語(ことば)を信解(しんげ)すべし。

という経文である。仏はほんとうの教えを今からお説きになろうとして、このように言われた。
「如来の誠諦(じょうたい)の語(ことば)を信解(しんげ)すべし」とある誠諦(じょうたい)の語というのは、誠心から出た真実の言葉のことである。仏が自ら悟ったことをお説きになるというのである。この「如来の誠諦(じょうたい)の語(ことば)を信解(しんげ)すべし」を仏は三度繰り返して言われた。これは大切なことであるからしっかりと聴きなさい、という意味なのである。

すると、大ぜいの菩薩や大衆の一番前にいた弥勒菩薩が合掌して仏に申しあげた。
世尊、どうかそれをお説き下さいませ、われわれ仏の言葉を必ず信じ、その教えをお受けいたします」と。このように三たび申しあげて仏にお願いした。

そのとき、世尊は多くの菩薩たちが三度お願いし、仏の教えを聞きたいという希望を認めたので 「汝等諦(なんだちあきらか)に聴(き)け、如来の秘密神通(ひみつじんつう)の力(ちから)を」 とまず仰せられたのである。如来の秘密神通の力とは、如来の深いはたらきのことである。如来の深いはたらきは、われわれ凡夫の知るところではない。宇宙の生命そのものである仏身(ほっしん)のはたらきは無限である

仏は八十年の生涯をこの世に現れて教えを説いたのでない。この世に現れた仏は迹仏(しゃくぶつ)であって、ほんとうの仏は本仏でなければならない。その本仏のはたらきは深く広いので、神通力といったのである。如来の秘密神通の力とは、本仏のすばらしい力のことである。本仏はわれわれの目には見えない隠されているから秘密なのである。隠されているからわからないと思うのはあやまりである。春の朝に草水が花開き、夏には葉を茂らせ、秋には紅葉し、冬には落葉するのも本仏のはたらきにほかならない。

仏が実は無限に長い過去のときより、すでに成仏していたことをあらわすために、経は譬喩(ひゆ)で説明する。これに対して弥勒菩薩などは、この世は無量無辺(むりょうむへん)であって教えることができるものではない。心で考えて想像できる世界でもない。また、声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)がどんなに汚(けが)れのない智慧をはたらかせてみても、この世界の広大なることを知ることはできない。

さらに、われわれが「阿惟越致」(あゆいおつち)の境地に達しても、世界の無辺無量であることは理解することができないと説く。阿惟越致(あゆいおつち)とは不退転(ふたいてん)のことである。不退転というのは、ある程度まで修行をつむと、決して元に戻らない境地のことである。このような不退転の位に入った人であっても、仏が説かれた広大な世界のことは理解することができないというのである。

次回に、つづく。


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第16章 如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)その3



道
信じたならば教えに打ちこまなければならない(一歩一歩、前に進む)
 


◎本仏(ほんぶつ)と迹仏(しゃくぶつ)

無限の長い時間より、仏が成仏してからはもっともっと長い時間が経過しているという。

我(われ)、成仏してより己来(このかた)、復(ま)た此(こ)れに過(す)ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫(ひゃくまんおくなゆたあそうぎごう)なり。

仏が成仏してからの時間は始めも終わりもない。長いとか短いとかいう、人間のはからいを超えている。それは時間を超えているということである。すなわち絶対時間にいます仏なのである。時間的にも空間的にも限定を下すことができないのが、仏の生命なのである。

このように無限の過去から成仏している仏が、実はこの娑婆(しゃば)世界において説法教化(きょうけ)している釈迦であるというのである。娑婆世界は、われわれ凡夫が住んでいるこの苦しみに満ちた小さな世界、現実の世界である。無限の空間、すなわち大宇宙から見れば、小さな太陽系のなかの、そのなかの一つの惑星にすぎない地球などは小さいものにすぎない。この小さな地球上の人間の住むこの娑婆世界において、仏はまず説法教化したのである。われわれが教えを説く場合もまったく同じである。周囲にいる人を救うことができないで、どうして一切の衆生を救うことができようか

高遠な理想はもたなければならない。しかし実行となると、もっとも近いもの、もっとも小さいことから始めなければならない。どんな大事業であっても、学問や芸術であっても、一歩一歩と小事を積みかさねてゆくしかないのである。仏の説法もそれと同じで、まず娑婆世界から始めて、しだいに多くの世界の人々を教え導いてゆく。しかも無限の過去から未来にわたって、本仏である仏は、さまざまな形をした仏となって世の中に現れる。その現れた仏を迹仏(しゃくぶつ)というのであるが、たとえば然灯仏(ねんとうぶつ)となって現れたりもした。

また衆生の能力に応じてさまざまな教えを与える。しかも仏は衆生の信等(しんとう)の諸根の利鈍(りどん)に応じて教えを与えるというが、信等の五根とは(1)信根(しんこん)(2)精進根(しょうじんこん)(3)念根(ねんこん)(4)定根(じょうこん)(5)慧根(えこん)のことをいう。
(1)信根(しんこん)とは、信じる能力、ほんとうにありがたい教えであると信じることが大切である。単なる知的な興味で「法華経」を読んでみようというのでは、信根は涌かない。
(2)精進根(しょうじんこん)とは、信じたならば教えに打ちこまなければならない。一つのことに打ちこむのが精進である。
(3)念根(ねんこん)とは、思うこと、念ずること、心に留めておかなければならない。
(4)定根(じょうこん)は、心をしっかりと集中することである。どんなことがあっても信念を変えないことが定根である。さらに
(5)慧根(えこん)によって、智慧の光を照らして、自分のやっていることが間違いないことを確認することである。

仏は、われわれ衆生の五根の程度が深いか浅いかがよくわかっている。その五根の能力に応じて仏は教えをお説きになるのである。仏はさまざまな方便(ほうべん)をもって教えを説き、衆生に歓喜(よろこび)の心を起こさせる。教えを聞いて歓喜の心が起こるということは大切なことである。

次回に、つづく。


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第16章 如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)その4



寿命
善い行為の果報は寿命に反映
 


◎久遠(くおん)の生命とは

今まで、仏が過去において、衆生の能力に応じて教化(きょうけ)してきたことを説いたが、これから経文は、釈尊の今生(こんじょう)における衆生強化を説く。まず小法(しょうぼう)を求める鈍根(どんこん)の人のため、自分は若いころに王宮を捨てて出家し、だんだんと修行した結果、仏に成ったと説く。

しかしこのことは、仮に説いたのであって、実は自分は久遠(くおん)の昔から仏に成っていたことを明らかにする。お釈迦様の御事蹟を通して根本の仏を見ることが大切なのである。真実にして虚(むな)しからず仏の目は、三界(さんがい)の相(すがた)をすべて見通すことができる。三界とは、欲界(よくかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)のことである。欲望の世界も物質の世界も精神界も、すべて見通すことができるのが仏の目である。

仏は三界の実相をどのように見るか。人世には変化もあるが、変化だけを見ていたは実相を見たことにはならない。変化する面と同時に変わらないものがある。薪(たきぎ)がが燃えて灰となれが薪の形はなくなるが、薪のエネルギーは熱となって薪そのものの持つエネルギーは別になくなったわけではない。この世の中にあるものはすべてそうであって、表面的には変化しているように見えても少しも変わらないものである。人間がこの世で生を受けるのも、死んでゆくのも別に変わるものではない。仏の眼から見れば生死(しょうじ)もまた不生不滅(ふしょうふめつ)にほかならない。

この三界の実相は不生不滅であるが、われわれ衆生は、この三界の真実の相を見ないで、生滅去来(しょうめつきょらい)の一面だけを見て、それに執着し煩悩(ぼんのう)を起こし、生死の流れのなかに苦しんで生きなけらればならない。そして、あらゆるものを差別(しゃべつ)として見るから平等の道理を知らない。また、二乗は平等の道理だけを見て差別を知らない。仏のみ差別と平等におちいることなく中道(ちゅうどう)の、(ことわり)を見ることができる。これを仏の如来知見(にょらいちけん)というのである。

また仏は「所作(しょさ)の仏事(ぶつじ)、未(いま)だ嘗(かつ)て暫(しばらく)くも廃(はい)せず」とあるように、仏事をやめることがない。仏事とは仏道のために人を教え導くことである。仏のやること、なすこと、言うこと、すべて仏事である。一瞬の間もその仏事を廃(や)めることがないとは何と尊いことであろうか。

仏の仏事は久遠(くおん)の昔から行われていた。そのことを経文では、

是(かく)の如(ごと)く、我(われ)、成仏(じょうぶつ)してより己来(このかた)、甚(はなは)だ大(おお)いに久遠(くおん)なり。寿命無量阿僧祈劫(じゅみようむりょうあそうぎごう)、常住(じょうじゅう)にして滅(めっ)せず。

と説く。ここにはっきりと三世(さんぜ)に常住する不生不滅の仏の生命が説かれている。成仏して以来、過去から久遠(くおん)であり、その仏の寿命はまた未来においても、はかり知ることができないほど常住である。しかもこの仏は菩薩道を行(ぎょ)じてきたのである。世のため人のために教えを説いてきたのである。

このように菩薩道を行(ぎょう)じてきた仏の寿命は、善いことをやったために、さらに長い長い寿命となる。善い行為の果報は寿命に反映するからである。長生きする人はそれだけ福運があり、果報がある人である。仏は菩薩道を昔から行じただけでも長い寿命を得ているのであり、さらに久遠の本仏であるからその寿命は無限となる。

次回に、つづく。


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第16章 如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)その5



毒薬
毒薬で苦しんでいる子供たち(我々)に、父(お釈迦様)の次の一手とは!
 

◎良薬を飲む

仏の生命が久遠常住(くおんじょうじゅう)であるのに、どうしてこの地上に現れた釈迦は八十年で入滅されたのか、その意味を考えるのが次の段である。

然(しか)るに今(いま) 実に滅度(めつど)に非(あら)ざれども、而(しか)も便(すなわ)ち唱(とな)えて、当(まさ)に滅度(めつど)を取るべしと言う。如来是(にょらいこ)の方便(ほうべん)を似(もっ)て、衆生を強化(きょうけ)す。

仏が八十年間この世に現れて入滅されたのは、真の入滅ではない。自分が今から入滅すると釈尊が言われたのは、実は衆生を方便をもって強化(きょうけ)するためなのである。衆生強化の方便として入滅することを予言されたのである。生きていて教えを説くのも方便であり、この世から姿を消して教えを説くのも衆生強化の方便なのである。

仏がもし入滅しないで、いつもこの世におられる、いつでも会って教えを聴くことができる、と考えれば、一生懸命に教えを聞こうという気にならない。いつでもできるということは、いつもやらないということになる。仏にいつでも会えて、いつでも教えを聴くことができると思うと、どうしてもわがままな気持ちを起こすようになる。さらにいつも同じ教えを聴いていると、またか、と思うようになり、飽きてしまう気分になりやすい。人間とはまた何となまけるようにできていることか。

すると「難相(なんそう)の想い」と「恭敬(くぎょう)の心」がなくなる。ああこの人に遭(あ)えて教えを聴くことができてほんとうによかったという気持ちが、「難相の想い」である。千里を遠しとせずに教えを聴く気持になるのはこの想いによる。またそうなると、その人を恭敬(くぎょう)する気持になってくる。

本仏は久遠常住(くおんじょうじゅう)であるが、方便としてこの世に現れる仏には入滅がある。だから「諸仏の出世には、値遇(ちぐう)すべきこと難(がた)し」となる。仏に遭って説法を聞くのは難値難遇(なんちなんぐう)である。

諸(もろもろ) の比丘(びく)、 如来は見ることを得(う)べきこと難(かた)し。

とあるように、仏に遭うことは容易なことではない。地上に現れた釈尊に2500年前、インドにおいて会うことができたのは、恵まれた仏弟子たちに限られる。容易に遭(あ)えない仏であることがわかると、「心に恋慕(れんぼ)を懐(いだ)き、仏を渇仰(かつごう)して、便(すなわち)善根(ぜんこん)を種(う)ゆべし」となる。恋慕というのは離れることができない、そばにいたい、という気持ちである。

世の中に現れて教えを説き、それが終われば入滅するのは何も釈尊だけでなく、どんな仏もそうである。仏がこの世の中から去って姿を消すのは衆生を救うためであり、衆生に信心を起こさせるためである。

この意味をさらによくわからせるために譬喩(ひゆ)を説く。 (法華七譬の最後の譬話し、良医病子(ろういびょうし)です)

(たいへん聡明な良い医者がいた。その人に大ぜいの子供がいた。父の医者は所用で他国へ行った。その留守の間に子供たちが毒薬を飲んだ。父が用事を終えて国へ帰ってくると、子供たちが毒薬を飲んで苦しんでいた。親の顔を見ると喜んだ。子供たちは父親に、自分たちは毒薬を飲んで苦しんでいるので、どうか良い薬を作ってこの病をなおして下さい、と頼んだ。そこで父はよくきく薬を与えた。この良い薬を飲めば苦しみを除いて病を治すことができると言い聞かせた。

子供のなかで、毒が全身にまわってしまった者は、父がせっかく作ってくれた良薬を飲もうとしなかった。あまりにも毒が身の中に深く入っていたため、この良薬の匂いをかいでも、これは良薬であるということがわからなくなって、飲もうとしなかったのである。

父は「此(こ)の子(こ)愍(あわれ)むべし」と思った。何とか方便をもうけてこの良薬を子供たちに飲まさなければならないと思った。そこで父は子供たちに、「お前たちよく聴け、自分は年をとってもうじき死ぬであろう。自分が死んだ後では、お前たちが困るだろうから、ここへ良い薬をおいておくから、これを飲みなさい。病気がなおらないと心配するな」と言って、他国に行ってしまった。しばらくすると、他国から使者が来て、子供たちの父がすでに死んだことを伝えた。

子供たちはびっくりした。父がいたら自分たちを救ってくれたのに、父は他国で死んだとは、誰も自分たちを見とってくれるものはいない。と考えたとき、子供たちの心は覚醒した。そして、すぐこの薬を飲んだために病を治すことができた。父は子供の病が治ったことを聞いたので、急いで国へ帰ってきた。)


父が他国で死んだと伝えたのは方便(ほうべん)であった。子供たちを目覚めさせるためであった。この父とはすなわち仏のことで、子供たちはわれわれ衆生のことである。われわれ衆生は仏が入滅したと聞いて、仏が残した教え(=良薬)を心から実行することになり、救われたのである。

仏が入滅されたのはまさしく衆生を救うための方便であることが、この譬喩(ひゆ)によってよくわかる。


次回に、つづく。


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第16章 如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)その6



如来寿量品1
宇宙の大生命=仏の生命と合一(ごういつ)することが...........
 


◎永遠の生命に生きる

「寿量品」の本文はここで終わり、次は有名な「自我偈」(じがげ)といわれる偈文(げもん)になる。法事のとき、日蓮宗や禅宗などで、この「自我偈」が読誦される。「自我得仏来、所経諸劫数」で始まるから「自我偈」といわれる。この偈文の部分はほとんど前のくり返しである。

この「如来寿量品」が「法華経」の核心であるのは、第一に仏の本体がはじめて明らかにされたことである。仏の寿命は永遠不滅であり常住であることがはっきりし、仏とは永遠不滅な宇宙の生命そのものであることがはっきりと自覚されたことである。第二は、本仏の現れとして迹仏(しゃくぶつ)、すなわち釈尊が何故に入滅しなければならなかったか、その理由が明らかになったことである。われわれが久遠実成(くおんじつじょう)の本体の大生命に生かされていることは、この「如来寿量品」を見ることによってはっきりとわかった。「如来寿量品」の最後は、

毎(つね)に自(みずか)ら是(こ)の念を作(な)す。「何を以(もっ)てか衆生をして無上道(むじょうどう)に入り、速(すみ)やかに仏身(ぶっしん)を成就(じょうじゅ)することを得(え)せしめん」と。

という経文で終わる。われわれが本仏の久遠(くおん)の大生命に生かされていることをしっかりと自覚するとともに、仏はわれわれを無上道に入らせ仏身を成就させようと考えてくださる。この「如来寿量品」で、はじめて永遠の生命である本仏の相(すがた)がはっきりとわかり、われわれはこの本仏の大生命の中に生かされていることを悟るとき大いなる勇気が生じる

この自覚は頭で理解されるものではない。身体的な行(ぎょう)によってこれが得られてくる。「南無妙法蓮華経」の題目を唱えるのでもよいし、「南無釈迦牟尼仏」でも「南無観世音菩薩」でもよい。あるいは、宇宙の霊気と自己の気を一つに合わせる太極拳や合気道のようなものでもよい。何でもよいが自己の肉体と精神を朝鍛夕錬(ちょうたんせきれん)してゆくとき、必ず大いなる宇宙の大生命=仏の生命と合一(ごういつ)することを知る

自分は自分を超えた大いなる存在に支えていることを知る。自分の存在を大いなる生命の中に帰投(きとう)することができるとき、人は宗教的安心を決定(けつじょう)することができる。そこから無限なる大いなる生命を感得(かんとく)することができ、深い心の中から無限の歓喜が湧き出てくることを知る


次回から、第17章分別功徳品(ふんべつくどくほん)に入ります。


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白蓮の香り

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白蓮堂のブログにご訪問ありがとうございます。神界、霊界、人間界(魂.心.肉体)は綿密に繋がっています。少しでも多くの人々に真実を知っていただきたく思い仏教の中での最高峰の経典、「法華経」をご紹介させていただきます。私(渡辺西洲)が勧める¨本物の法華経¨と出遭えたなら、あなたに、奇跡が起きます! 一人でも多くの人にご縁がありますように ....... (合掌)

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