第20章「常不軽菩薩品」その1



10.21 2016
(人間の生存の苦しみは煩悩が集まっているからである)



◎威音王如来(いおんおうにょらい)の説法

「法師功徳品」は法師になるための修行について説いたものだが、その修行ができる人もいればできない人もいる。五種の修行といわれると、ただ形式的にそれをやればよいと考える人もいる。「法華経」を読誦(どくじゅ)すればよいとなると、ただ、毎日、何時間読んだから、自分は救われると考える人もいる。しかし、一番大切なことは本当に心の中から仏の教えを信じ誠心誠意をもって信仰に生きなければならないことである。信仰者の態度が重要なのである。この「常不軽菩薩品」に出てくる常不軽菩薩という人はまさしくこのような立派な態度に徹した信仰者であり、どんな人間にもきらりと輝く物証があることを確信し、あらゆる人々を礼拝した人の話である。

あるとき、仏は得大勢菩薩にいわれた・「法華経」の教えを信じ実行している者に対して悪口を言ったり、罵(ののし)ったり、謗(そし)ったりする人がいれば、必ずその報いとして大きな苦しみに合うことはすでに説いたことであり、さらにその反対に「法華経」を弘めるために力を尽くしたものは六根が清浄になることも説いた。

六根というのは眼、耳、鼻、舌、身、意のことで、人間の精神と身体のすべてであり、「法華経」を弘めるとこの六根が清浄になるという大いなる功徳を得ることができると説いている。このような無限の功徳を得ることができる「法華経」を弘めるということはいったいどういうことなのか。これから仏がお説きになるのは一つの過去の物語ではあるが、ここに説かれた内容は現代にもそのまま通じる話である。すなわち常不軽菩薩のお話である。

昔、威音王如来という仏がいた。その菩薩がいた時代を「離衰(りすい)」と名付け、その国を「大成(だいじょう)」といった。その威音王如来は天、人、阿修羅のために教えを説いた。声聞のためには四諦の教えを説いて生老病死という苦しみからまぬがれるようにした。縁覚(えんがく)を求める者には十二因縁の教えを説き、菩薩を求める者には六波羅蜜の教えを説いた。

四諦というのは苦・集・滅・道の四つの真理で、人間の生存の苦しみは煩悩が集まっているからであり、その煩悩を滅すれば、正しい道が得られるという教えである。諦という字は諦(あきら)めること、真理を知ることの意味である。この四諦の教えによって「生老病死」という人生の苦しみから逃れることができると説いた。「生老病死」とは人生の変化のことで、変わることはすべて苦しいことなのである。この苦しみは現代においても昔と少しも変わることはない。どんなに医学が進歩してもこの苦しみから逃れることはできない。

縁覚(えんがく)が境界(きょうがい)を求めるために説いた十二因縁とは、⑴無明⑵行⑶識⑷名色(みょうしき)⑸六入⑹触⑺受⑻愛⑼取⑽有⑾生⑿老死の十二でここでは詳しことは省略するが要するに人間の生存の十二のあり方であって、その因果関係や輪廻のあり方を説いたものである。

さらに、自分のためだけの悟りを求める声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)とちがって、世の中の人々を救おうという理想を持つ菩薩は六波羅蜜、すなわち布施とか忍辱とか精進など六つの実践を行うことによって、成仏できると説く。

この声聞には四諦を、縁覚には十二因縁を、菩薩には六度(ろくど)を説くというこの「法華経」の教えは後代に大きな影響を与えて仏教学の定説になってゆく。

次回につづく。


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第20章「常不軽菩薩品」その2



常不軽菩薩
常不軽菩薩の生まれ変わりは、お釈迦様です。


◎礼拝行(らいはいぎょう)とは...................人を軽んずることなし

威音王仏(いおんのうぶつ)の寿命はたいへんに長く、正法(しょうぼう)と像法の時代をずっと説法しつづけた。
正法というのは仏の正しい教えが行われていた時代であり、像法というのは正しい教えに似た教えが実行されていた時代であるがその時代は長い長い時間続いたのであった。正法、像法の時代が過ぎると、またこの国に仏が現れた。その仏の名前は、前と同じく威音王如来であった。このようにして無限の長い間に仏が二億人も現れたが、名前はみな同じであった。

同じ仏がいつの時代にも現れて教えを説くことは、仏が滅びないことを意味している
どんな世の中になっても仏は存在するというまことに力強い思想である。このことは「法華経」の一貫している考え方である。
最初の威音王如来がなくなられたのは、時代が正法から像法の時代へと移っていったときのことであった。
像法の時代は仏の教えをその通り実行するのがうとましくなり、理屈ばかりまかり通る世の中であり、増上慢の比丘が大きな勢力をもってきた増上慢の比丘とは学問ばかりして実行しない人のことである。たくさんの経論を読んでいるから、なんでもよくわかった、俺はなんでも知っている、と思う人のことである。

この増上慢の比丘のなかに、一人だけちがったひとがいた。それは常不軽(じょうふきょう)という菩薩であった。この人をどうして常不軽というのかというと、それには理由があった。この人は途中で行き会う人がいると、どんな人にも礼拝し讃嘆(さんたん)したのであった。そして「私はあなたたちを心から敬っています。決して軽んじません」と言った。相手がどんな職業の人であろうと、一切関係がなく、どんな人に対しても真心をこめて敬ったのである。どんな人も軽んずることがなかったから、「常不軽菩薩」と言われたのである。

この人は常不軽菩薩は経典を読誦することをしないで、ただ礼拝を行うだけであった。そしてどんなに遠くにいる人のところへも出向いて行って、必ず礼拝を行なった。そして必ず、「私は決してあなた様を軽んじません。皆さんも必ず仏になれるのですから」と言った。

常不軽菩薩が人々を礼拝する理由はどんな人でも仏になれる本性を持っているから、菩薩の道を行じさえすれば必ず仏になれる、ということを確信していたからであった。大乗の教えによって修行すれば必ず仏になれるので、どんな人に対してもこれを軽んずることがなかったのである。
常不軽菩薩があらゆる人を礼拝したのは何の為か。その人に必ず仏になれるという自覚を与えるためであった。

どんな人に対しても、「深く敬う」ということは、その人に対して深い反省を促すためであったあなたも自分自身を大切にしなさいあなたの中に仏性があるのですよしかもその仏性を修行によって開発すれば仏になれるのですよ。こういうことをその人が反省するようにと、常不軽菩薩はあらゆる人に対して礼拝を繰り返したのであった。

「お前たちは、貴い仏性を持っている。それを自分で気がつかないのは何と悲しいことか。早くそこに気づいて、その貴い仏性を発揮するようにしなさい。」と口で会う代わりに、ただ黙って礼拝をしたのは、口で言うよりももっともっと強烈な印象を人に与えたかったからである。お経の講義をするだけであれば、仏教の知識さえ修得すればどんな人でもできる。しかし、どんな人に対しても礼拝することは決してできるものではない。

しかも、この常不軽菩薩が、どんなに遠い人のところにも出かけて行って礼拝したと言うのが重要である。たまたま親しい人、縁のある人を礼拝することはやろうと思えばできることかもしれないが、遠い所の人にまで行って礼拝するということは普通の人のできることではない。一切衆生を救おうという強烈な情熱と信念がなければそれはできない

次回につづく。


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第20章「常不軽菩薩品」その3


身を避ける

真の達人は無用な争いはしない。逃げるのも仏法のため!


◎身を避ける

人間のなかにはいろんな人がいるものである。礼拝されたりすると喜ぶ人もいるし、反省する人もいる。なかには怒りを発する人もいる。とくに心が汚れた人は、礼拝されると、かえって腹を立てて悪口を言う。常不軽菩薩は深い人間愛からどんな人も礼拝するのであるが、腹を立てる人もいるのである。そんなことをするな、とけちをつける者もある。

多年の間、常不軽菩薩は、どんなに悪口を言われ、罵(ののし)られても、決して腹を立てず「お前さんは必ず仏に成れますよ」と言って歩いた。このようにいうと、ほんとうに腹を立て、怒り心頭に発する者がいる。怒り狂った人たちは、杖や瓦や石でこの菩薩を打った。するとこの菩薩は、これをよけて遠くへ逃げて行ったが、なお声高く「自分はあなたたちを軽んじません。あなたたちはみんな仏に成れるのです」と唱えていた。「常に」あなたたちを「軽んじない」(不軽)と言っていたので、この菩薩のことを「常不軽菩薩」といったのである。

とんでもないことをいう坊主だ、と迫害を加えると、常不軽菩薩は逃げてゆき、遠くからまた大声で言うのであるが、ここで大切なのは逃げるということである。常不軽菩薩はなぜ逃げるのか。それは大法のためである。仏法のためである。仏法を人に弘める使命感に生きたこの菩薩は、木や石で打たれるようなことはしないで身をかくし、遠くからあくまでも教えを説こうとしたのである。

不惜身命」(ふじしゃくしんみょう)という言葉があるが、不惜身命の覚悟で仕事でも学問でも、芸術でもひたすら行うものは、決して生命を粗末にはしないものである。体を大事にし不摂生(ふせっせい)を避けてただ一つの目的を達成するために生命がけで行うのである。仕事はすればするほど、自分の生命の長いことを願うようになり、生命が惜しくなる。

武道でも同じである。一芸に達した人は決して人と争うことはない。殺気を感じればこちらから身を避けるのである。無用の争いは一切することなく、自ら身を避けるのが、真の達人である。


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第20章「常不軽菩薩品」その4



忍耐
「法華経」の教えを自分のものにするためには。


◎無限の修行

この常不軽と言われた人が一生の間、他人を軽んずることなく善い行いを積んで、まさに入滅しようとするとき、虚空の中で、威音王如来が先に説かれた「法華経」の偈文を聴いて六根がすべて清浄となった。

常不軽菩薩が人に笑われても、罵られても、石をぶつけられても杖で打たれても、どんなことがあっても相手を礼拝し、教えを説くのは、大いなる忍辱の行である。菩薩の行は忍耐を基本とする。「菩薩生地経(ぼさつしょうじきょう)」には次のように説かれている。

菩薩の行は忍耐を本となす。忍耐に四種あり。一には罵り(ののしり)を受けても黙して報いず。二には打たれても恨まず。三には怒るものあれば情けを持って迎え、四には侮(あなど)るものあれば、その悪を思わず。

これを見ても、忍耐ということが菩薩の修行にとっていかに大切なものであるかがわかる。
まず第一には、どんなに人に罵られても、黙ってこれに対して応じない。弁解もしないことが大切である。どんなに罵られても、一言も言わない修行は、並大抵の人間人間のよくなし得るものではない。本当に心の中に深く期する大願心がなければそれはできない。
第二には、打たれても恨みを持たないことも普通の人にはできないことである。打たれればまず恨みを持つ。あるいはすぐにでも打ち返したくなるし、喧嘩になる。しかし大いなる願いと教えを弘める不惜身命(ふじゃくしんみょう)の思いをしっかりと保っていれば、打たれても恨みを持たなくなる。むしろ、打った人に憐れみを抱くようになることこそ菩薩に近づくことなのである。忍耐こそ最高の勝利にほかならない。
第三には、怒るものがあれば情けをもち、憐れみを持って迎え入れてやる度量の大きさが必要である。人間の大きさが何倍とちがわなければ、相手をゆすることはできないものである。相手と対等の力量にあるからこそ怒るものに対しては怒りで報いるようになる
第四には、侮辱を受けた場合である。自分を侮るものがあっても決してその悪を思わない。かえって相手に対して憐れみの気持ちを持つことが必要なのである。迫害に対して耐え忍ぶことができるひとは、また誘惑にも打ち克つことができる。忍耐力のない人は、自分が得意の時にはすぐに有頂天になる。忍耐力のある人は誘惑にも乗せられることがない。

この常不軽菩薩は、このように立派な心構えを持っていたために、「法華経」の教えもすっかり自分のものにすることができた。そして、六根清浄を得おわると、さらに寿命を長年月増すことができ、人のために広く「法華経」を説いたのであった。
このように常不軽菩薩が立派な「法華経」の行者になると、増上慢の人々もこの菩薩がただの人でないことにだんだん気がついてきた。この人が、大神通力や大弁舌力や不動の力をもってきたことを知ると、だんだんとこの菩薩の言うことを感服して聴くようになった。常不軽菩薩はさらに多くの人々を教化し、最高の悟りに入らせた。さらに人に教えるばかりでなく、たくさんの仏にお仕えした。

常不軽菩薩はこのようにして、長い間の修行が成就して、ついに仏の境涯に到達したのであった。いわゆる歴劫修行(りゃくごうしゅぎょう)が完成したのである。歴劫修行というのは、無限に長い時間に繰り返し修行を続けることによってついに修行を完成させることである。

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第20章「常不軽菩薩品」その5



シャカ2
釈尊はなぜ、速やかに悟りを開けたのか...........その種あかしとは。


◎順縁(じゅんえん)と逆縁(ぎゃくえん) 

仏は得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)に対して常不軽菩薩の因縁をずっとお話ししてきたのであったが、いよいよ仏はここで種あかしをする。そのときの常不軽菩薩はとは、実は他人ではなく、今の自分がすなわち昔の常不軽菩薩にほかならないという。

もし釈尊が前からずっとこの仏の貴い教えをよく身につけ、他人のためにそれを説いて人を感化することができなかったならば、今、現世で6年ばかり難行苦行したからといって簡単に仏の智慧を完成することができるはずがないのである。「自分は前世からいろいろな仏から教えを受けて、それを守り、読誦し、教えを人々のために説いてきたから、このように速やかに悟りを開くことができたのである」と言われたのであった。さらに釈尊は得大勢菩薩に種あかしをする。

昔、常不軽菩薩はを軽んじ迫害を加えた人とは一体誰であろうか。それは現に今ここにいる大ぜいの菩薩や比丘の信者たちである。この人々は昔は常不軽菩薩の言うことなどまったく聴かず、常不軽菩薩に迫害を加えていた人たちであったが、今は仏の教えをしっかりと修行して、心が退転することがないようにりっぱな人になっていることを明らかにした。

これを逆縁ということである。仏法に逆らって迫害を加えてことが、かえって深い縁となって仏の教えを学ぶようになったことを示している。縁には順縁と逆縁とがある。順縁というのは仏の教えが説かれたとき、素直に喜んで仏の教えを聴きしだいに仏の教えを実行するようになることである

むかし、高守節(こうしゅせつ)という在家の信者が中国の五台山で修行し「法華経」を読誦するにいたった物語がある。そのとき高守節が五台山の麗で最初に出会った沙門(しゃもん)は海雲比丘(かいうんびく)であり、次に出会ったインド僧や白馬の美女は文殊菩薩の化身であった。高守節の前に初めから偉大な海雲比丘や文殊菩薩が、そのままそれとわかるような姿をして現れたならば、高守節はただその前で恐れおののきひれ伏すだけで、その弟子となり、「法華経」を読誦する因果は結ばれなかった。初めて会った比丘や白馬の美女を、ただの僧、ただの美女と思ったからこそ、高守節は近づくことができたのである。ただの普通の沙門や白馬の美女は、高守節を「法華経」と結ばせる順縁をつくってくれたのであった。

逆縁というのは、常不軽菩薩を馬鹿にして迫害を加えようとした人々のように仏の教えが説かれると、それを非難し、迫害を加えるために集まってくる人々のことである。この人たちは初めは迫害したのであるが、後にはりっぱに仏の教えを実行するようになったのであるから、この人々を逆縁というのである。

それは若いとき徹底した唯物史観や唯物論に立っていた人々のなかに、その晩年には「般若心経」にひかれたり、親鸞の宗教に自分の実在をかけた人が多くいることからも明らかである。順縁でもいい、逆縁でもいい、とにかく仏の教え近づき仏の教えを実行してくれたならば、それでよいことであるが、大部分の人は順縁でも逆縁でもない

相手に順縁でも逆縁も与えないということは、教えを説く人のほうに真実と誠意がないからである。常不軽菩薩がどんな人に対しても礼拝するということを実行したこと、その実行する姿を見た人は何と思ったか。初めは馬鹿にしていても、その姿を見ていた人々の心に何か深い反省を迫ったのではなかろうか。常不軽菩薩の実行を見た人はしだいに深く感動していったのではなかったか。特に迫害を加えた人々は後に何を感じたであろうか。

このように順縁にしろ逆縁にしろ、人々に仏法と縁をもたせるためには、一に教えを説く人の至誠と真実による。その姿の前には順縁も逆縁もない。ただ真実の教えと至誠をもってその教えを実行する力にある。日蓮聖人の一生は、順縁よりもほとんど逆縁の一生であった。聖人はそれに屈することなく、自らを常不軽菩薩になぞらえて、真実の教えを説いたのであった。その教えを一生懸命に説けば説くほど、不惜身命(ふじしゃくしんみょう)の願いをこめて説けば説くほど、逆縁はさらに強く、相手は反抗し、非難し、迫害を加えてくる。しかしその迫害者も次の世においては、さらに無限の来世においては、仏の教えを聴き、従い、信じてゆく順縁者となるのである。この確信が聖人の布教を支えたのであった。

次回から、第21章 如来神力品です。


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白蓮堂のブログにご訪問ありがとうございます。神界、霊界、人間界(魂.心.肉体)は綿密に繋がっています。少しでも多くの人々に真実を知っていただきたく思い仏教の中での最高峰の経典、「法華経」をご紹介させていただきます。私(渡辺西洲)が勧める¨本物の法華経¨と出遭えたなら、あなたに、奇跡が起きます! 一人でも多くの人にご縁がありますように ....... (合掌)

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