第22章 嘱累品(ぞくるいほん)その1



2017 1.6
最高の悟りは簡単にえられるものではない。


◎得難(えがた)き教え(その1)

「如来神力品」の教えをお説きになった世尊は、法座からお立ちあがになり、おごそこなお姿で、右の手でたくさんの菩薩の頭をお撫(な)でになって、次のように言われた。「私は無量百千万億阿僧祇劫(むりょうひゃくせんまんのくあそうぎごう)」という長い間にわたって普通では到底得られない最高の悟りを得ることができました今それをお前さんたちに授けたいお前さんたちはどうか一心にこの教えを弘めて衆生の幸福を増進させて下さい」と。

これが「嘱累品」(ぞくるいほん)第22の書きだしである。「如来神力品」は上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)などの偉い菩薩に対して教えを説いたのに対して、「嘱累品」の方は普通の人々に対して教えを説いたといわれ、仏はどんな人にもわけへだてることなく教えを説いているのである。

嘱累とはどういう意味か。「嘱」とは委託すること任せること。頼むことである。「累」はわずらいをかける。面倒をかけることである。「嘱累」とは面倒をかけるが教えを弘めてくれという意味である。さらにいえば、どんな迫害を受けても苦しみにあっても、この「法華経」の教えを弘めてくれということになる。ところで、ここで言われた仏の言葉には簡単に見過ごすことができないものがある。それは自分自身のことを言われたことで、

我、無量百千万億阿僧祇劫において、この得難き阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の法を修習せり。

ということである。自分は長い年月の間に修行を積んで、やっとこの阿耨多羅三藐三菩提という最高の智慧が得られたといっていることである。しかも長い間修行して得られた最高の悟りを菩薩たちにあげて委(まか)せるから、これを弘めてくれということである。

最高の悟りは簡単に得られるものではない。釈迦が悟りを開くのにも長い苦行があってそれをふみこえて真理を悟ったのであるから最高の悟りは簡単にえられるものではない

次回につづく。


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第22章 嘱累品(ぞくるいほん)その2



2017 1 13
教えを弘めるにはまず「法華経」の受持(じゅじ)が必要である。


◎得難(えがた)き教え(その2)

長い年月かけて得られた最高の悟りを弟子に与えようということが、また難中の難である。自分が苦心してやっと得られたことは、簡単に人に与えにくいものである。自分が十年かかって得られたものなら、弟子に十年かかってやればよいと考えがちである。芸道者でも武道家でも、奥義(おうぎ)はなかなか教えたがらないのが普通である。それを何のこだわりもなく菩薩たちを信頼して与えようというのであるから、世尊の偉大さがいちだんとわかるものである。

さらに、この教えを一心に弘めよ、しかもどんな人にもすぐれた利益(りやく)を与えよ、というのであるから、頭を撫でられた菩薩は深い感激に包まれたにちがいない。頭を撫でることは厚い信頼の気持ちをあらわしているからである。世尊は三たび菩薩たちの頭を撫でて、次のように言われた。

我、無量百千万億阿僧祇劫(むりょうひゃくせんまんあそうぎごう)に於(お)いて、是(こ)の得難(えがた)き阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の法を修習(しゅしゅう)せり。今(いま)以(も)って汝等(なんだち)に付ぞくす。汝等(なんだち)当(まさ)に受持(じゅじ).読誦(どくじゅ)し、広くこの法を宣(の)べて、一切衆生をして普(あまね)く聞知(もんち)することを得(え)せしむべし。

三たび同じことを言われたことは、世尊の願いの並々ならぬことを示している。長い年月をかけ命がけで得た真理をお前たちに与えるというのである。この「法華経」を受持(じゅじ)し、読誦(どくじゅ)し、この教えをあらゆる人々に弘めよというのである。

教えを弘めるにはまず受持が必要である。自分が教えをしっかり受けとめて、それを身につけなければ、人に教えを説くことができない。しかも絶えず読誦することによって、その教えと自分が一体とならなければ、教えを人に弘める活力は生まれないのである。

次回につづく。


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第22章 嘱累品(ぞくるいほん)その3



仏の智慧
仏の智慧を与えられる人に。


◎人に施すには .............. 慈悲心による(その1)

仏が菩薩たちの頭を撫でて、なぜこのようなことを頼むのか。自分が苦心して得たものでも、大いなる慈悲心があるために、人々にそれを与えようとしたのである。仏はもの惜しみしないばかりではない。畏(おそ)れるものがないのである。「畏れる所なし」 というのは、どんな人にも同じ教えを説くことができるからである。相手によって言うことを変えないからである。

(おそ)れる所なし」 ということは、世の中に受け入れられなくても、意に介さないことでもある。世の中の風潮にあわせて仏教の教えを曲げたり時流に乗る必要はまったくない。世間や時流に対して畏れる必要がまったくないことをいうのである。それで仏が人々に与えるものとは何か。それは仏の智慧如来の智慧自然(じねん)の智慧の三つである。この三つはまったく同じものであるが、そのはたらき方によって三つに仮りに分けたのである。仏の智慧は世の中の悩み苦しんでいる人々を救うはたらきをする。

「浄土論」(じょうどろん)に、「仏慧明浄(ぶつえみょうじょう)の日は世の闇(やみ)を除(のぞ)く」 という言葉があるが、仏の智慧が明らかで浄(きよ)らかになれば、それは世の中の暗闇を照らし出し、一切の闇を除きさるという。仏の智慧とはまさしく光明のことである。われわれ衆生の煩悩(ぼんのう)を除き苦しみから救ってくれるものである。われわれもまたこの仏の智慧を与えられたならば、人々のために役立つようなはたらきをしなければならない。自分のためだけに智慧を磨いてもそれは物知りになったにすぎない辞書になったにすぎない。それは仏の智慧ではない。世の中や人々のために役立つ智慧を磨こうという気持ちは仏の智慧を与えられることによって起こるものなのである

次の如来の智慧とは仏の悟られた絶対の真理のことである。真如(しんにょ)であるともいってよい。真如も法界(ほっかい)も法性(ほっしょう)も、すべてこれ如来なのである。如来の智慧とは真如を知ることであり、永遠の生命を知ることである。真理を知ったものは如何なる迫害にも屈することなく教えを弘めることができる。世尊が菩薩たちに如来の智慧を与えたということは重要である。

次回につづく。


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第22章 嘱累品(ぞくるいほん)その4



2017 1 27
施しのなかの最大のものは、一人の苦しみの人を救うことである。


◎人に施すには .............. 慈悲心による(その2)

自然(じねん)の智慧というのは、本来、人々がもっている仏性(ぶっしょう)のことである。この本来もっている仏性が花開いたのが自然の智慧である。この自然の智慧も、ただ修行もしないではったらかしにしておいたのでは、自然の智慧として花開くことはなく、潜在的にあるといわれる仏性になってしまう。自然の智慧を得るには修行が大切なのである。

自分の本来もっている力は自然に生長し、外に現れる。ちょうど春先に竹の子が芽を出すと、どんなものでも持ちあげながら力強く伸びていくのと同じである。これは自然の生命力である。人間もまた同じことであって本来もっている仏性の力が、修行によって必ず花開いてくるものである。竹の子が春風によって生え出るように、仏性の力は修行により師と善友の縁により大きく育つ。これが自然の智慧にほかならない。どんな困難にあっても教えを弘めることができるのはこの生命力による

この三つの智慧を人々に施すことができる仏は、「如来は是(こ)れ一切衆生の大施主(だいせしゅ)なり」 と言われるのである。如来はあらゆる人々に施しを与える人である。物を与えることは限りがあるが、教えを与えることには限りがない。無限の教えを与えることができる人であるから、それは大施主となる。

施す場合に重要なのは、慈悲心が伴うことである。「大丈夫論」(だいじょうぶろん)には次のように説かれている。

悲心(ひしん)をもって一人(ひとり)に施す功徳は、大いなること地(じ)の如し。己(おのれ)の為(た)めに施す心は報(むく)いを得(う)ること罌粟粒(けしつぶ)の如し。一の厄難(やくなん)の人を救うは、余(よ)の一切の施すに勝(まさ)れり。衆星光(しゅうせいひか)りありと雖(いえど)も、一の明月(めいげつ)に如(し)かず。

物でも教えでも、人に施すときは大悲心がなければならない。経文にも「如来は大慈悲あって諸(もろもろ)の慳恡(けんりん)なく(ま)た畏(おそ)るる所(ところ)なくして(よ)く衆生に仏の智慧如来の智慧自然の智慧を与(あた)」 とあるように、法施(ほっせ)は大慈悲の心に発するものでなければならない。しかも施しのなかの最大のものは、一人の苦しみの人を救うことであるという。仏が偉大なる大施主であり得たのは、実に大慈悲の心から教えを施したからなのである


次回につづく。


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第22章 嘱累品(ぞくるいほん)その5



2017 2.3
だんだん教えを実行してゆくと、大いなる喜びが心の中から湧きおこってくるようになる。


◎教えを実行するとは........... 示教利喜(じきょうりき)

つづいて経文は未来において、もし善男子(ぜんなんし)、善女人(ぜんにょにん)があって、如来の智慧を信じる者があるならば、その人々のために「法華経」を説いて、その教えを知らせなければならないと説く。それはすべての人に仏の智慧を得させるためである。しかし末法(まっぽう)の世の中になると、如来の智慧、すなわち永遠の真理を信じてくれる者ばかりではない。このような末法の時代にはどうしたらよいのか。もし人々が絶対の真理を信用しなかったときには、

当(まさ)に如来の余(よ)の深法(じんぽう)の中(なか)に於(お)いて、示教利喜(じきょうりき)すべし。

としなければならない。「法華経」の教えをどうしても信用しない者には、仏が説いた他のお経の教えでよいから、方便(ほうべん)として説き示せばよいというのである。「如来の余の深法」 の中からその人に適する教えをまず説き示しなさいと言うのである。しかも教えの説き方は「示教利喜」(じきょうりき)でなければならない。示教利喜とは人にものを教える順序である

」(じ)とは教えの大体のことを示すのである。仏教入門の講義でも、まったく仏教を知らない人に説くときも、仏教とはどういうものであるかの大体をまず簡単に示しておく必要がある。仏の教えとはこういうものだという輪郭を示すことである。

次の段階が「」(きょう)である。だんだんと細かいことを教えてゆくことである。だんだんと細部にわたって教えてゆくことが必要である。武道や芸道では基本技である脚の運び方、体の動かし方などを鍛錬するのがこの時期である。

次には「」(り)である。ただ教わっただけでは利益(りやく)はわからない。自分が教えを実行するとき、はじめて利益がわかってくるものである。

最後の「」(き)とは、だんだん教えを実行してゆくと大いなる喜びが心の中から湧きおこってくるようになることである。ありがたいな、やってよかったな、という気持ちになる。物質的に報いられるわけではなくても、人間は一つのことを実行してゆくと大きな喜びが湧きおこってくるものである。ありがたい、と感じてきたら「示教利喜」 の教えが守られたことになる。

どんなことをするのでも、ありがたいと感じて行うことは人間としていちばん大切なことです。どんな小さなことでも、ありがたいと感じながら行うことが宗教心なのである。「法華経」の教えがわからない人は仏典の中のどんな教えでもよいからまず学ぶことである。そのうちにだんだんと「法華経」を学んでみようという気持ちがおこるものである。

このように「示教利喜」できるようになれば、「(すなわち)(こ)れ已(すで)に諸仏(しょぶつ)の恩(おん)を報(ほう)ずるなり」 となる。示教利喜して教えを実行することに大いなる喜びが感ぜられるようになれば、それこそ教えを施してくれた仏に対する報恩なのである。仏の恩に報いる最高の道は示教利喜して、「法華経の教えを弘めることなのである。なにも仏に花や食事を供養することではない。真の報恩行(ほうおんぎょう)は教えを弘めることにほかならない。


次回につづく。


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第22章 嘱累品(ぞくるいほん)その6



2017 2.10.3
教えを弘める使命感を仏ご自身から授かったことで、身がふるえるぐらい大いなる喜びに包まれた。


◎大いなる喜びとは

たくさんの菩薩たちは、仏がこのようにお説きになったことを聴いて、みな大いなる喜びに包まれたのであった。命がけで教えを弘めようと言われて、たいへんに喜んだ菩薩たちの体には、その喜びが満ち溢れた。仏に向かって恭(うやうや)しく頭をたれ、合唱して言った。「世尊の教えの通りお心持ちにそむかないようにしっかりと実行いたしますどうぞご心配下さいますな」 と。菩薩たちは、仏の前でその実行を約束したのであった。しかも同じ約束を三度声を出してくり返して言ったのであった。末世(まつせ)の世の中になっても力を合わせて教えを弘めるから、決してご心配には及びませんと言ったのである。

この菩薩たちのりっぱな返事を聞いた仏は、これならば末法(まっぽう)の世の中になっても教えが弘まることはまちがいないと確信をもった。そこで四方八方から来てここに集まってきていた分身(ふんじん)の仏を、それぞれの国に帰らせようとして、「皆さん、めいめいのお国にお帰り下さい多宝仏(たほうぶつ)の塔も元通りにして下さい」 と言われた。分身(ふんじん)の仏たちは霊鷲山(りょうじゅせん)において「法華経」 が説かれるので、いろいろな国から集まってきていたが、教えを弘めにそれぞれの国へ帰ることになったのである。

仏のお言葉を聞いた数限りのない分身(ふんじん)の仏や、多宝仏(たほうぶつ)や上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)などのたくさんの菩薩、それから舎利弗(しゃりほつ)などの声聞(しょうもん)、一切の世間の天、人、阿修羅(あしゅら)などもみなが心から喜んだのであった。仏は教えが弘まることが確信できたので、心から喜んだのは当たり前であるが、仏の智慧、真の悟りの教えを受けた分身の仏、多宝仏やたくさんの菩薩たちも、この尊い教えがわかったこととその教えを弘める使命感を仏ご自身から授かったことで身がふるえるぐらい大いなる喜びに包まれたのであった。仏を中心とするすべての喜びは、この娑婆世界が喜びの国土である浄土になったことを示している

「法華経」の教えを聴聞しようとして仏の分身(ふんじん)や菩薩や声聞や、ありとあらゆる人たちや、天、人、阿修羅までもが、霊鷲山に集まってきたが、どんな人でも仏に成れるということを聴かされて大いなる喜びをもったのである。このような真理がわかったことで「法華経」 の序品(じょほん)からの一大ドラマはこの「嘱累品」で終わりにしてもよいのであるが、ただ教えがわかったということを弘めよ、と言われたことだけでは、まだ充分にわかったことにはならない。頭でわかっただけでなく、「法華経 を信仰しようというエネルギーを沸きたたせるためには、「法華経の教えによって人々を救った菩薩の実際のはたらきを示す必要があるこんな菩薩がおられて法華経 の教えを弘めて人々を救ったという事実を示すことが大切である。そこで「薬王菩薩本事品」(やくおうぼさつほんじほん) 第23以下の諸品が説かれるのである。

次回から第23章 「薬王菩薩本事品」(やくおうぼさつほんじほん) に入ります。


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白蓮堂のブログにご訪問ありがとうございます。神界、霊界、人間界(魂.心.肉体)は綿密に繋がっています。少しでも多くの人々に真実を知っていただきたく思い仏教の中での最高峰の経典、「法華経」をご紹介させていただきます。私(渡辺西洲)が勧める¨本物の法華経¨と出遭えたなら、あなたに、奇跡が起きます! 一人でも多くの人にご縁がありますように ....... (合掌)

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