釈尊と十大弟子、その1(舎利弗)



2018 1 7

智慧第一といわれたシャーリプトラ、別名を舎利弗または舎利子


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆智慧第一 シャーリプトラ、別名を舎利弗(しゃりほつ)、舎利子(しゃりし)

※真理を求める求道者がついに出会った釈尊の教え

十大弟子のなかでも、特に釈尊の信頼の高かったのが、智慧第一といわれたこのシャリープトラである。彼は、釈尊に代わって教えを説くほどであった。仏教経典にも、そんな場面が描かれている。身近なところでは、「般若心経」 に出てくる「舎利子」(しゃりし)が、このシャリープトラである。彼が、釈尊の弟子となったのには、次のような経緯があった。

真理を求めて、さまざまな師を訪ね歩いたシャリープトラは、あるとき立派な僧に出会った。その物腰(ものごし)からして、高邁(こうまい)な悟りを開いた僧であろうと、彼は懇願(こんがん)してその教えを尋(たず)ねた。この僧こそ釈尊が最初に教えを説いた5人の比丘(びく)のひとりアッサジであった。アッサジは、弟子入りしてまだ間もないので........ と断って、次のような偈(げ)詩を唱えて聞かせた。

諸法は因(いん)より生(しょう)如来はその因を説きたまふ諸法の滅(めつ)をも亦(また)。大沙門(だいしゃもん)この如(ごと)く説きたまふ」(律蔵) 「縁起の教え」 を(げ)にしたこの四句を聞いただけで、シャリープトラは、たちまち釈尊の教えを理解し、悟りの最初段階に達することができたという。智慧第一といわれるゆえんである。

真理を知った喜びに感動したシャリープトラは、なによりもまず最初に、親友のマウドガリヤーヤナにそれを知らせようと思った。というのも二人は幼いころからの仲良しで、かつて一緒に出家したからである。二人は、ともに裕福なバラモンの家に生まれ、何不自由ない生活をしていた。少年だった二人は、あるときこんな経験をした。ラージャグリハで毎年行われる山頂祭という祭り見物に行ったときである。店が並び、見世物の小屋が出て、それは賑やかな祭りであった。ところが、聡明な頭脳と感じやすい心を持ったこの少年たちは、楽しいはずの祭りの賑わいに、かえって人生のはかなさ無常を感じてしまったのである。

あと100年もたったらここにいる人々は死んでしまうにちがいないどんなに楽しくても移りゆく時間のなかではすべてが虚(むな)しいばかりではないか虚しさから逃れる永遠の道はないものか............」 祭りの喧騒(けんそう)のなかに、どうしようのない虚しさを感じた少年たちは、虚しさから逃れるために、真理を求めて出家することにした。二人は、当時、懐疑論(かいぎろん)を唱えていたサンジャヤの弟子となって出家したのである。

だが、サンジャヤの教えをたちまち理解した二人は、永遠の真理は別にあるはずだ、と考えるようになった。ならば、一緒にいるよりも別れて、その真理を探しに行こうではないか。もし、どちらかが一方が先に真理を悟ったら、お互いに知らせ合おう。こんな堅い約束を交わして別れ、旅立ったのである。

そしてついに、シャリープトラは、アッサジを通して釈尊と出会う。親友のマウドガリヤーヤナもまた、喜びで輝かんばかりのシャリープトラの顔を見て、すべてを理解した。二人は釈尊の弟子になることにした。

サンジャヤの教団で指導的立場にある二人が、釈尊の弟子になったと知り、信者250人は、全員が釈尊の下(もと)に走った。シャリープトラは、ほどなく最高の悟りを開き、教団の発展に大いに貢献したのであった。だが彼は、先に入滅(にゅうめつ)する許しを得ると、故郷に帰って病気で亡くなったとされる。末期(まつご)の床で、母をはじめ多くの親戚を釈尊に帰依(きえ)させたという。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、2018年もどうぞよろしくお願いいたします。一人でも多くの方が釈尊の真実の教えに出会えることを願う次第です (西洲)


次回につづく。


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釈尊と十大弟子、その2(目犍連)



2018 1.28

前世の報いを受け入れたマウドガリヤーヤナ(目犍連)


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆神通第一 マウドガリヤーヤナ、別名を目犍連(もくけんれん)、目連(もくれん)

※前世の業(カルマ)の前に自らの神通力を捨てる

仏教では、最高の悟りを開いた者は、次の6つの超能力を得るとされている。

 一、望む所に行く力(神足通、じんそくつう)
 二、運命を予知する力(天眼通、てんげんつう)
 三、鋭い聴力(天耳通、てんにつう)
 四、人の心を知る力(他心通、たしんつう)
 五、過去世(かこぜ)の姿を知る力(宿命通、しゅくめいつう)
 六、真理を悟る力(漏尽通、ろじんつう)

釈尊も、その多くの弟子たちも、当然この超能力を持っていたという。なかでもマウドガリヤーヤナ(目犍連)は、超能力つまり神通力では誰よりも勝っていたので神通第一といわれていたマウドガリヤーヤナ(目犍連)とシャーリプトラ(舎利弗)の二人は、特に「二大弟子」 ともいわれる。幼いころから仲良しの二人は、弟子となってからも協力して仏教教団を支え、めざましい働きをした。

マウドガリヤーヤナ(目犍連)の説法で仏の教えを信じる者は次々と増えた。当然、一方では、信者を失う教団があった。対立教団のなかにはマウドガリヤーヤナ(目犍連)を激しく憎む者がいた。そして、マウドガリヤーヤナ(目犍連)を亡き者にせんと賊(ぞく)を雇(やと)い、襲わせたのである。だが、最初の襲撃(しゅうげき)も、2度目の攻撃も、超能力によって事前にそれを察知したマウドガリヤーヤナ(目犍連)は、難を回避して無事であった。3度目も事前に襲撃を知ることができた。だが、これほど執拗(しつよう)に襲われるには、なにか深い理由があるに違いないと考え自らの前世を超能力で振り返ってみたのである

すると、驚いたことに、自分は前世において目の見えない親を殺そうとしていたことがわかったのだった。馬車で両親を郊外に連れ出すと、どうせ目が見えないのだからと、盗賊を装(よそお)って、襲いかかったのである。目が見えないながらも、盗賊の襲撃を察知した親は、大声で叫んだ。「息子よ私たちのことはいいからとにかくお前だけでも無事逃げておくれ」 盗賊を装った前世のマウドガリヤーヤナ(目犍連)は、深い後悔の念に苛(さいな)まれ振り上げた剣を下したという。やがて、両親を馬車に乗せると、とぼとぼと街に帰っていった。

はるか遠い前世において、自分は親を殺そうとした人間だった。その報いで、今、外道に命を狙われているのだ。自らの業を知ったマウドガリヤーヤナ(目犍連)は、もはや逃げようとはしなかった。その後、マウドガリヤーヤナ(目犍連)は盗賊に襲われた。骨は折れ、肉が裂け、夥(おびただ)しい血が飛び散った。殺したと思った盗賊は、風にようにその場を立ち去った。

普通の人間であれば、とても助かるまい。だが、そんな傷を負っても、マウドガリヤーヤナ(目犍連)は、まだ生きていた。そして、神通力を使って傷ついた体で釈尊のもとに飛んで帰ったのである。「どうか涅槃(ねはん)に入ることをお許しください」 釈尊の許しを得ると、マウドガリヤーヤナ(目犍連)は人々に別れを言って入滅した。

4度目の襲撃も超能力を使って事前に察知すれば、逃げることができたはずである。だが、マウドガリヤーヤナ(目犍連)は、あえてそれをしなかった。超能力でその場をしのぐことができても、前世の業はどのようにも解決できないのである。彼は、一切の超能力を使うことなく、前世の報いを受け入れたのであった。

シャーリプトラ(舎利弗)に続いてマウドガリヤーヤナ(目犍連)を失った釈尊の悲しみはいかばかりであったろう。絶大な信頼を寄せていた弟子2人を、相次いで失ったのである。それからほどなくして、釈尊も入滅したのであった。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、法華経を受持読誦することにより、6神通力が身についてきます! それと、法華経の中に業(カルマ)を軽減する実践方法が説かれていますよ。 (西洲)


次回につづく。


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釈尊と十大弟子、その3(釈尊)



2018 2 4

あらゆる世の中の現象は、‘因縁’(いんねん) によって起きている。



◎仏陀、涅槃に入る(その1)

一切の世の中において
生まれた者はすべて死に帰る
寿命は限りないように見えても
必ず尽きるときがやってくる
盛んなものもいつかは衰えて
病に倒れついには果てるときを迎える


(涅槃経、ねはんきょう)より

人間を遥かに超越し、目覚ましい布教を続けてきた釈尊(ブッダ)も、齢(よわい)80に達していた。自らも ‘そのとき’ が近いことをはっきり知った。ラージャグリハの北東に立つグリッドラクータ(霊鷲山、りょうじゅせん)に居(きょ)を定めていたブッダは、故郷に向けて旅立つことを決める。マカダ国を去るに当たっての最後の説法は、改悛(かいしゅん)して帰依したアジャータシャトル王に対して行われた。王は隣国のヴァッジ族を攻めるかどうかで迷っていた。ブッダはいった。

「ヴァッジの人々は多数が集まって、しばしば会議を開く。共同して行動し、事柄を処理する。制定された法を守り、古老の言葉をよく聞く。良家の子女に暴力をもってあたらない。霊域(れいいき)を敬(うやま)修行者たちへの供養と保護を怠らない。ヴァッジの人々が、これを続ける限りは決して衰退して滅亡することはない」 単に戦いを否定するのではなく、きちんとした事実と理由を語って、非を理解させたのだ。ブッダの判断は、常に構成されている要素や、形作られている事実を冷静に見つめて下されたものだった。あらゆる世の中の現象は、‘因縁’(いんねん) によって起きていることを最後まで説き続けたのである

旅支度(たびじたく)が整うと、ブッダは多くの人々に別れを告げ、アーナンダらの少数の弟子をつれて、遠くカピラヴァストゥを目指した。後に、仏教哲学の研究と精進の大僧院が建立(こんりゅう)されたナーランダを経て、雄大なガンジス河を望むパータリプトラに至った。「大いなる川を橋をかけて渡る人もいる。木や草を編んで筏(いかだ)を作って渡る人もいる。聡明な人はすでに渡り終わっている」 人にはそれぞれ個別の悩みや苦しみがある乗り越えるにはさまざまな方法と手段があってしかるべきだと述べた。人として行うべきではない5つのこと殺生(せっしょう)、偸盗(ちょうとう)、邪淫(じゃいん)、妄語(もうご)、飲酒(おんじゃ) を戒めるように務めれば各種の渡り方があると多くの人に語って聞かせたのである。

この「ゴータマの渡し」 でガンジス河を越し、ヴァイシャリーの都に着くと、遊女アンバパーリーからの招待を承諾した。遅れて、貴族からの招待が寄せられたが、先約を理由に断った。ブッダは最後まで平等を守り抜いた自らが艱難辛苦(かんなんしんく)の末に悟った正覚(しょうかく)は、最後の最後までまったくゆるがなかったのである。

しかしながら、ついに倒れるときが来た。ヴァイシャリーの近くで雨季の定住に入ったとき、恐ろしい病が生じて、耐えがたい激痛が襲ったのだ。かろうじて禅定(ぜんじょう)によって回復して旅を続けたが、途中、鍛冶屋(かじや)チェンダの供養した食事に中毒して再び倒れた。

続きは次回に。     (釈迦の本、学研参照)


追記、お釈迦様の最期のお姿は、感動的です!! 一人でも多くの方々に、アーナンダ(阿難)の気持ちになれたら、世の中は安泰ですが........... (西洲)



次回につづく。


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釈尊と十大弟子、その4(釈尊)



2018 2 11

釈尊(ブッダ)は床が整うと、ゆっくりと身を横たえ柔らかな微笑みをたたえながら、
静かに目を閉じた。胸を通り口を過ぎる息が、そっと止まった。

(今回は、悟りをテーマにしましたが、どうしたら悟れると思いますか?)



◎仏陀、涅槃に入る(その2)

鍛冶屋のチェンダの供養した食事に中毒して再び倒れた。............ 「私の生涯にとって最上の食事がふたつあったスジャータの乳粥(ちちがゆ)チェンダの食事だ私はこの2つに無上の感謝を捧げる」 苦しい下痢(げり)に苦しみながら、チェンダの供養の功徳を称(たた)えたのだ。ブッダは、おぼつかない足どりで、ようやく歩みを続けながら、アーナンダ(阿難)に向けてこう告げた。

「私は、老い朽(く)ちて、人生の旅路を終えようとしている。たとえば、古く壊れた車が革紐(かわひも)の助けによってようやく動いているようなものだ。もはや、カピラヴァストゥに着くことはない」 アーナンダ(阿難)は天を仰いで慟哭(どうこく)した。「何を泣くのか。 私が常にいっていることを思い出しなさい生まれたものは必ず死ぬ運命を免れないということを.............. すべてのものは変化し形を変えるという真理を............ ここで生命を失おうとしているのは私の肉体にすぎない私が悟った最高の真理は人々が実践を続ければ生命を失うことはないそこに常に私は生きている永遠に生き続けるのだ。この‘悟り’のみが、全宇宙においてただひとつの絶対不変の真理なのだ」 アーナンダ(阿難)は、それでも泣くことを止めずにブッダが死んだあとは、何を頼りに生きたらいいのかを必死で尋ねた。

自らを(ともしび)’として生きなさい法を(ともしび)’として生きなさい..........」 自分自身の思索と行動を灯として、全宇宙のなかでたったひとつの真理の悟りを灯として生きるべきだと告げたのである。「諸々の事象(じしょう)は過ぎ去るものであるたゆまず怠らず信じた道をただひたすらに進んで修行しなさい.............

清らかな水をたたえた川、ヒランヤヴァーティ河のほとりの静かな美しい村、クシナガラに着くと、ブッダは最期が来たことを知った。「さあ、アーナンダ(阿難)よ。2本のサーラ樹(沙羅双樹、さらそうじゅ)の下に、頭を北に向けて最後の床を作ってくれ。私は、疲れた。私は、横になりたい」 ブッダは床が整うとゆっくりと身を横たえ柔らかな微笑みをたたえながら静かに目を閉じた胸を通り口を過ぎる息がそっと止まった

このとき、天の曼陀羅華(まんだらげ)と、地の沙羅双樹(さらそうじゅ)の木が満開となり、ブッダの体に降り注いだ。修行を完成した正覚の者への無上の供養として捧げられたのである。妙なる楽(がく)が奏(かな)でられ、幽(かす)かな声が流れ、大いなる悲しみの歌となって虚空にこだまし、どこまでも響きわたった。ブッダの苦しみの流転(るてん)はここに終焉(しゅうえん)となり、彼岸に往き渡り、寂静(じゃくじょう)の涅槃(ねはん)に入った。

往った者よ 往った者よ 彼岸に往った者よ
彼岸に完全に往った者よ 悟りに幸いあれ
ここに智慧の心の完成を終わる

(般若心経より)

ブッダの遺体は、川辺に運ばれ、火葬に付(ふ)された。燃え盛る火に体は煙となり、太陽の光を受けて瑠璃色に輝きながら、果てしない無限の空に吸い込まれていった。あたかも、ブッダの教えが歴史の時空を超えて広く遠く深く人々の心の内に受け継がれていったように.................... 。   (釈迦の本、学研参照)


追記、常に釈尊は生きている。永遠に生き続ける。 この‘悟り’ のみが、絶対不変の宇宙の真理ですね! 私は、やっと悟りの境地というのが分かりました。頭でいくら考えても、いっぱい、いい本読んでも無理ということです。(西洲)



次回につづく。


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釈尊と十大弟子、その5(阿難)



2018 2 18

釈尊が涅槃(ねはん)に入るまでの25年間、常にそばに仕えてきたアーナンダ(阿難)


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆多聞第一 アーナンダ、別名を阿難(あなん)、阿難陀(あなんだ)

※経典会議を機についに悟りを開く


釈尊の教えは、文字にして書きとめられ文書の形で残ったわけではない。釈尊の説法を聞いた弟子たちが、それぞれの記憶に留めていたのである。だから、仏教経典の書き出しは、「如是我聞、にょぜがもん」(私はこのように聞いた) で始まっている。

釈尊が入滅すると、その教えがバラバラになってしまい勝手に解釈されることを恐れたマハーカーシャパ(大迦葉)は、すぐに釈尊の教えをまとめる会議(第一結集)を開くことを決意した。会議には、悟りを開いた弟子たちを参加させねばならない。だが、弟子たちのなかから、アーナンダ(阿難)の出席を望む声が上がった。アーナンダ(阿難)は、まだ悟りを開いてはいないが侍者として常に釈尊のそばに仕え行動をともにしていた。釈尊の教えをまとめるに当たって、最も教えを聞いた者多聞第一といわれるアーナンダ(阿難)を欠かすことができなかった

だが、アーナンダ(阿難)自身は、まだ悟りを開いていない。会議に出席することがためらわれた。自分のように悟りを開いていない弟子には、参加資格がない、出席は遠慮しよう。会議の前夜、アーナンダ(阿難)は夜遅くまで思い悩んだ。はじめて侍者となってから釈尊が涅槃(ねはん)に入るまでの25年間、常にそばに仕えてきた。その間、じかに教えを聴いていたにもかかわらず、悟ることができなかったのであった。いや、だから悟ことができなかったのかもしれない。苦しみ悩んだ夜も明け、いよいよ会議の開かれるという日の朝彼はついに悟りを開くことができた。ここに彼を含めて500人の弟子が集まって、ラージャグリハの郊外、七葉窟(しちようくつ)において経典をまとめる会議が始まった。

マハーカーシャパ(大迦葉)が議長を務め、戒律についてウーパリー(優波離)が中心になってまとめ、教えはアーナンダ(阿難)が中心となってまとめたのであった。そのとき、こんな場面があった。「世尊は細かい戒について廃止してもよい、とおっしゃいました」 アーナンダ(阿難)が、釈尊のことばを伝えると、当然のように質問する者が現れた。「具体的にどの戒を廃止してどの戒を残せといわれたのか」 ところがアーナンダ(阿難)はそこまで確認していなかったのである。アーナンダ(阿難)を責める声が上がった。こんなに大事なことを、どうしてきちんと確認しておかなかったのか、というわけである。結局、会議ではこまかい戒をふくめて遵守(じゅんしゅ)しなければならないという結論に達した。だが、このいわゆる‘小小戒’ (しょうしょうかい)の是非(ぜひ)をめぐる議論は後に教団の分裂を招くほどの問題となっていったのである

ところで、アーナンダ(阿難)についてはもう一つ記しておかなければならないことがある。それは、女性の弟子入りつまり尼僧教団を釈尊に認めさせたのは彼の功績だったということである。釈尊は、女性が出家することを許していなかった。釈尊の育ての親マハーパジャパティは、夫であるシュッドーダナ王の死後、自分も出家したいと釈尊に申し出た。だが、釈尊はそれを許さなかった。どうしても出家したいという願いを捨てきれないマハーパジャパティは、同じ思いを抱く釈迦族の女たちと、黒髪を切り、手に鉢(はち)をもって裸足(はだし)で釈尊の跡を追った。

それを知ったアーナンダ(阿難)は、女性の出家を釈尊に願い出た。釈尊はそれを認めなかった。 だが、これまで釈尊に背いたことのないアーナンダ(阿難)は、何回も願い出て、女性の出家の正当性を主張したのであった。釈尊も、それを良しとして女性の出家者を認めたのであった。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、釈尊とはいえ、阿難尊者の願いは聞かざるえない。ということですね(^^)/ (西洲)


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釈尊と十大弟子、その6(富楼那)



2018 2 25

死ぬ覚悟こそが、「説法第一」 といわれるプールナ(富楼那)


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆説法第一 プールナ、別名を富楼那(ふるな)

※釈尊をうならせた布教活動への志


説法第一といわれたプールナ(富楼那)には、こんな話が伝わつている。ある夕方、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)にいた釈尊をプールナ(富楼那)が訪ねてきた。釈尊の前に進み出て、うやうやしく礼拝をしてから言った。

「世尊よ、わたしは、布教の旅に出たいと思います。お別れをする前に、どうか最後の教えをお聴かせください」 教えを説いた後、釈尊は、静かに尋ねた。

「お前は、どこへ布教に行くのですか」

「西の彼方(かなた)、スナーパランタ国へ行きたいと思います」

「 プールナ(富楼那)よ、かの国の人々は気性が荒く、粗暴(そぼう)だと聞いております。もし人々がお前を罵(ののし)り、辱(はずかし)めたらどうします」

「たとえ罵られたとしても、私を殴ったりしないのだから、この国の人々は善い人たちだ、と思うでしょう」

「では、お前を殴ったらどうしますか」 

「私はこう考えます。たとえ殴ったとしても、棒で叩いたりしないのだから、この国の人々は善い人たちだ、と」

「では、お前を棒で叩いたらどうします」

「刀で傷つけないのだから善い人たちと思うでしょう」

「では、刀で傷つけ、お前を切り殺したらどうします」

「世尊よ、世の中には自ら命を絶つ者が少なくありません。誰か殺してくれないかと願う者もいるほどです。ですからそのときは、この国の人々は善い人たちだ、私の命を絶って、この世の悩みから解放してくれるのですから、と思うでしょう」

プールナ(富楼那)行きなさいその心掛けならばきっと多くの信者を得るでしょう

こうしてプールナ(富楼那)は、西の彼方へ旅立ち、多くの成果をあげたという。このような覚悟が、「説法第一」 といわれるプールナ(富楼那)の説法を支えているのであろう。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、法華経の第八章(五百弟子授記品)に登場する富楼那尊者、流石ですね。お釈迦様に法を説く覚悟を示した富楼那尊者、究極のプラス思考にも思えますね。どんなことがあっても、「善き人びと」と思う心の広さを感じますね。私たちは物事を不安に捉えるとますます不安になりますが、このお釈迦様とのやりとりは何が起きても悪い事は起こらないと思うことがいいのかなとも思えますね。(白蓮堂)

次回につづく。


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釈尊と十大弟子、その7(阿那律)



2018 3 4

眼の見えない弟子の衣を縫(ぬ)う釈尊。釈尊を中心とする仏教教団の一つの微笑ましい姿が........


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆天眼第一 アニルッダ、別名を阿那律(あなりつ)

※睡魔に打ち克つ行の末に得た「真理を見る眼」


釈尊は、いつものように弟子や多くの信者たちに教えを説いていた。人々は、熱心にその声に耳を傾けている。すると、その中に一人うとうとと居眠りをする者がいるではないか。アニルッダ(阿那律)であった。

釈尊は、説法が終わると、アニルッダ(阿那律)を近くに呼び寄せて言った。「お前は、法を求めて出家したはずではないか。にもかかわらず、説法の最中に居眠りをしてしまう。どうしたのかね」 「申し訳ございません。気が緩んでおりました。今日から、たとえこの身が溶けてただれようとも、決して御仏(みほとけ)の前で眠るようなことはいたしません」 アニルッダ(阿那律)は、釈尊のまえに跪(ひざまず)き合掌して誓ったのであった。

以来、アニルッダ(阿那律)は釈尊のそばにいる間、夜更けであれ夜明けであれ、決して眠らなかった。かつて極端な苦行を否定して中道(ちゅうどう)を唱え悟りへの道を歩んだ釈尊は、さすがに心配して声をかけた。「アニルッダ(阿那律)よ、怠けることはもちろんよくないが極端な修行もいけません。さあ、お眠りなさい」 だが、釈尊の前で立てた誓いを、アニルッダ(阿那律)はどうしても破る気にはなれなかった。そのために眼が悪くなった。釈尊は、医師のジーヴァカにアニルッダ(阿那律)の眼の治療を頼んだ。だが、はじめから眠ろうとしない者には、いかに名医といえども手の打ちようがなかった

すべてのものが食事を摂ることによって存在している耳には声が食事であり鼻には香りが食事である。そして、眼には眠りが食事なのです。アニルッダ(阿那律)よ、もうお眠りなさい」 釈尊は、もう一度睡眠を勧めたが、アニルッダ(阿那律)の決意は固く、決して眠ろうとしなかった。そのため、とうとう失明してしまったのである。

アニルッダ(阿那律)が天眼第一といわれるようになったのは、肉体の眼を失ってからである。視力を失って、何も見えなくなってしまったとき、アニルッダ(阿那律)の永遠の真理を見る智慧の眼は明るく開かれたのであった。あるいは、これがアニルッダ(阿那律)の求めていたものだったのかもしれない。それからどのくらいの月日がたったときであろうか。ある日、アニルッダ(阿那律)は、自分の衣がほころびてしまったので、繕(つくろ)おうとした。だが、目が見えぬため、針に糸を通すことができない。「悟りを開かれた方々よ、私の針に糸を通して、さらに功徳を積もうとする方はいらっしゃいませんか」 すると、遠くから声がした。「アニルッダ(阿那律)よ、私が功徳を積ませてもらいましょう。さあ、その針と糸をよこしなさい」

それは、まぎれもなく釈尊の声である。「世尊よ、私は、悟りを開いた者で、この針に糸を通すことによって、さらに功徳を積もうとする者はいないか、と言ったのです。すでにあらゆる功徳を積まれ一切を成し遂げられた世尊にお願いするためではありません」

「アニルッダ(阿那律)よ、功徳を積むことにおいて私に勝る者はいないはずだ私は多くの功徳を積みたいと思っているでもそれは決して私自身のためではなく生きとし生けるものを救いたいがためなのだ」 釈尊はこう言うとアニルッダ(阿那律)の手から針と糸、そして衣を取ると、ほころびたところを繕い始めたのであった。

釈尊の心を知って、黙って衣を繕ってもらうアニルッダ(阿那律)。眼の見えない弟子の衣を縫(ぬ)う釈尊。釈尊を中心とする仏教教団の一つの微笑ましい姿が、まるで目に見えるようではないか。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、 アニルッダは肉体の眼を失っても智慧の眼を授かったのですね。眼には眠る事、耳に素敵な声(音楽もそうでしょうね)を聞き、鼻にはよい香りを(花の香りかな)それが栄養になっていくのですね。そう考えると、眼の栄養素には環境を整え(綺麗なものを見たり、安眠できる環境を作り、耳の栄養には気分が上がるような音楽鑑賞や歌を歌ったり、(現代ならカラオケなど気分もいいですよね!)そして、自分の口から出た言葉は一番最初に自分の耳に入りますよね。心が穏やかになるような優しい言葉を使うことも大事ですよね。

一切を成し遂げられて、徳積みの必要がないと思われていた御釈迦様ですが、自分のための徳積みではなく、また、弟子という立場に関係なく、生きとしいけるもののために徳積み…との言葉には素晴らしさを感じますね。お釈迦様のすべての生きとし生けるものの幸せを願う気持ちがあらわれていますね。 (白蓮堂から)


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釈尊と十大弟子、その8(須菩提)



2018 3 11

須菩提(しゅぼだい)
解空(げくう)第一、無諍(むそう)第一、.被供養(ひくよう)第一といわれた、....。


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆解空(げくう)第一 スブーティ、別名を須菩提(しゅぼだい)

※無欲無諍でだれよれも厚く供養を受ける


スブーティ(須菩提)は、誰よれも釈尊の教えである「」 をよく理解していたという意味で、解空(げくう)第一といわれた。また、決して言い争いをしなかったので無諍(むそう)第一、信者からの供養を誰よりも厚く受けたので被供養(ひくよう)第一ともいわれた。

スブーティ(須菩提)の父は、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を寄進したスダッタ(須達、しゅだつ)長者の弟である。叔父が、祇園精舎を釈尊に献納(けんのう)したとき、彼も参列して、釈尊の教えを聴いたことがある。そのとき、深く心を動かされ、ただちに釈尊に願い出て出家し、仏弟子となったのである。

あるときスブーティ(須菩提)は、ラージャグリハに行って説法をした。その説法に感激したビンビサーラ王は、スブーティ(須菩提)のために小屋を寄進した。ところが、王はうっかりして、その小屋に屋根を葺(ふ)かせるのを忘れてしまった。スブーティ(須菩提)は、文句一つ言わずに屋根のない小屋に住んだところがその間一滴の雨も降らなかったのであるスブーティ(須菩提)の徳を高く評価した天が雨を降らせなかった、といわれている。

何か月もの間、一滴の雨も降らなかったので、農民はじめ多くの人々が困った。こんなに日照りが続くのは、スブーティ(須菩提)の小屋に屋根がないためではないか。人々は、そう噂するようになった。それに気づいた王は、急いで屋根を葺かせた。スブーティ(須菩提)の小屋に屋根ができると途端に雨が降り始めたのである。干天(かんてん)に慈雨(じう)。多くの人々が救われたのであった。スブーティ(須菩提)は、屋根のない小屋に何か月も住みながら、王に催促することもなく、王を恨むこともなかった。

この世はすべて仮の姿屋根があろうがなかろうが、スブーティ(須菩提)は全くこだわらなかったのである。小屋を寄進した王の供養を、ただ厚く受け取っただけなのであろう。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、このお話から感じる事は、不平不満は口に出さずとも、周りを恨まなくても、本当に必要なものは天が与えてくださるという事ではないだろうか。こだわりがあるから不平不満が顔を出す。被供養第一と言われるほどに須菩提様が供養を受けることができたのはなぜだろうか?無諍第一という穏やかで大きな器が人々の信頼を集め、信者さんもたくさんいてその人望が被供養第一ということにつながっていったのでしょうね。今の世の中にも通用する話のように思います。 (白蓮堂)

次回につづく。


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釈尊と十大弟子、その9(大迦葉)



2018 3 18

実質的な釈尊の後継者として活躍した大迦葉....。


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆頭陀(ずだ)第一 マハーカーシャパ、別名を大迦葉(だいかしょう)、摩訶迦葉(まかかしょう)

※清らかな精神を追い求めた釈尊の後継者


マハーカーシャパ(大迦葉)は、頭陀行第一といわれた。頭陀行というのは衣食住に対する執着を払いのけるやめに実践しなければならない行のことである。たとえば、ボロで作った衣を着なければならない(著幣廼納衣、じゃくへいのうい) という行では、彼は釈尊からもらった糞掃衣(ふんぞうえ)をまとって生活をした。あるいは、常に托鉢(たくはつ)して歩き、(常行乞食、じょうきょうこつじき) 、布施(ふせ)されたものを一日1食だけ摂って生活する(受一食法、じゅいちじきほう) という行も、その通りに実践した。彼は出家してから生涯を終えるまで、このような頭陀行を実践し続けたのであった。 

マハーカーシャパ(大迦葉)は本名をピッパリといい、裕福なバラモンの子として生まれた。幼いころから求道心(ぐどうしん)が篤(あつ)出家に対する激しい憧(あこが)れを持っていた。父母は、子どものそうした望みを知っていたので、早く嫁をとらせ、家を継がせようとした。結婚すれば、落ち着くと思ったのである。ピッパリが年ごろになったとき、父母は言った。「嫁を迎え、早く安心させておくれ」 だが、出家の望みを絶ちがたいピッパリは、黄金の娘の像を作らせて、父母に結婚を断るための条件を出した。

「もし、光り輝くこの像より美しい乙女がいるようなら、結婚いたしましょう」 父母は、人をやってそれより美しい娘を探し出したのである。バッダー.カピラーニというバラモンの娘であった。嫁にふさわしい娘がいたときいたピッパリは、自分の眼で確かめるために托鉢する修行者に身をやつして、娘の家を訪ねた。そこで施(ほどこ)しを乞(こ)うと、出てきたのはパッダーであった。これが話に聞いた娘に間違いないと思ったピッパリは、正直に身分を明かし、生涯独身で清浄(せいじょう)な生活を送りたいという自分の望みを素直に打ち明けたのである。「ああ、その話を聞いて安心いたしました。実は私も同じ思いだったのです」 なんとバッダーも同じ希望を持っていたのであった。

二人は、それぞれの親を安心させるために結婚することにした。だが、決して床を共にすることはしなかった。月日は流れ、すでに父母も亡くなった。だが、二人の清浄な関係は変わらない。ある日、油を搾(しぼ)り取ろうと胡麻(ごま)を乾かしていたバッダーは、そこにたくさんの小さな虫を見つけた。今まで油を作るために、知らずに虫を殺していたのかもしれない。その罪を思うと、殺生(せっしょう)するわが身があさましく思われた。そのころ、畑で農作業をしていたピッパリ(大迦葉)も、また、同じ思いにとらわれていた。帰宅した二人は、お互いの気持ちを語り合い、ついに家を捨てて出家することにした。家財をことごとく使用人に分け与えると、自分たちは衣となる布一枚と鉢(はち)を持って旅立ったのであった。

良い師に巡り会ったら必ずお前に知らせるそれまでは別の道を歩もう」 二人は再会を約束してそれぞれ別の道を歩いていった。

妻と別れ、各地を旅して回ったピッパリ(大迦葉)は、ニグローダの樹の下に座っているひとりの聖者に出会ったその姿は見るだけで心が清らかになるようであるその聖者こそ釈尊であった

あなたより他に私の師はいませんどうか私を弟子にしてください」 こうしてピッパリ(大迦葉)は釈尊の弟子となり、カーシャパ(カッサパ)族の出身であるため、以来マハー(偉大なる)カーシャパと呼ばれるようになったのである。教えを聴いて8日目、マハーカーシャパ(大迦葉)は悟りを開いた

尼僧(にそう)教団ができると、マハーカーシャパ(大迦葉)は、神通力で妻のバッダーを捜し出し弟子入りさせた。釈尊の入滅後は、その教えをまとめるなど、実質的な後継者として活躍したのは知られる通りである。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、
裕福な家庭にお生まれになった大迦葉。豊かだった生活の全てを捨てて出家されてから亡くなるまで頭陀行を実践されました。
自分にはこの道だという強い信念で貫かれたことが大きいと思います。そして、幸運にもお釈迦さまと出会いお弟子になります。
出会うなり「私は世尊の弟子です」と一方的に宣言したところに大迦葉の強い気持ちが表れています。そして八日後に独力で悟ったということです。釈尊は摩訶迦葉尊者の能力を見抜かれた上でお弟子になることを許されたのかもしれませんね。このエピソードには、私たちには想像もつかないものがあります。 (白蓮堂)

次回につづく。


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釈尊と十大弟子、その10(迦旃延.かせんねん)



2018 3 25

教えをわかりやすく説くことに長(た)けていた迦旃延(かせんねん)....。


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆広説(こうせつ)第一、論議第一 カーティヤーヤナ、別名を迦旃延(かせんねん)

※苦労しながらも異国の地での布教に励む


広説(こうせつ)第一、教えをわかりやすく説くことに長(た)けていたカーティヤーヤナ(迦旃延)は、辺境で布教をしていたため、さまざまな障害を乗り越えなければならなかった。なかでも授戒(じゅかい)の問題は深刻だった。これから紹介する話は、カーティヤーヤナ(迦旃延)の辺境での苦労を伝えるとともに、戒律に対する釈尊の柔軟な姿勢を物語っている。

カーティヤーヤナ(迦旃延)は、コーサラ国のはるか西、アバンティ国で、布教をしていた。あるとき、彼の侍者(じしゃ)であるソーナコーティカンナという青年が、自分も出家して修行の生活を送りたいと言い出した。だが、、仏教教団に入り出家者としての生活をするためには、具足戒(ぐそくかい)という僧の守るべき戒を受けなければならない。その儀式には3人の師と7人の比丘(びく、出家者)の証人がなければならない。つまり10人の出家者が必要だった。ところが、アバンティ国には、僧がほとんどいない。

だが、カーティヤーヤナ(迦旃延)は、苦労の末、なんとか10人の僧を集め、ソーナに戒を授けて出家させてやったのであった。出家したソーナは、釈尊に会いたいという望みを叶(かな)えるべく、許されて旅立つことになった。そのとき、カーティヤーヤナ(迦旃延)は、ソーナにこう言った。「ソーナよ、世尊に会ったらこのように伝えてほしい。遠い異境の地では、僧の数がきわめて少ない。どうかこれからは、具足戒を授ける僧の数を減らすことをお許しください、と」

長い旅をつづけ、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に着いたソーナは、釈尊に会ってカーティヤーヤナ(迦旃延)の伝言を告げた。ソーナの言葉に耳を傾けていた釈尊は、静かに言った。

「アバンティ国においては、5人の僧によって具足戒を授けることを許そう」 そのほか、文化や自然環境の違いで守ることの難しい2,3の戒をその風土に合わせて改めることを許したのであった。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、10人の出家者が必要というルールは絶対だと思いがちですが、お釈迦さまはここでも柔軟な考えかたを示されました。状況に応じて対応すれば良いというのは、10人の証人を探すことより、戒を守り実践していくことを重んじられたからだと考えます。
臨機応変に考え、対応していくというのも大切なことだと思います。 (白蓮堂)

次回につづく。


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釈尊と十大弟子、その11(優波離,うばり)



2018 4 1

身分が低いウパーリ(優波離)だったが、釈尊に認められて持律第一と賞賛されるまでなった。


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆持律(じりつ)第一 ウパーリ、別名を優波離(うばり)

※下級の身分ながら一途な信仰で教団の信任を得る


インドは、今も昔もカーストと呼ばれる身分階級制度が存在する。ここで紹介するウパーリ(優波離)は、カーストの中でも最下層のシュードラ(奴隷)という身分であり、釈迦族の理髪師であった。あるとき、王子アナルッダをはじめとする釈迦族の若者6人が、釈迦のもとへ弟子入りすべく出発した。彼らに付き従っていたウパーリ(優波離)も同行していた。道の途中、彼らはウパーリ(優波離)にいった。

「お前は、ここから帰りなさい」 ウパーリ(優波離)は迷った。このままおめおめと城に帰れば、なぜ彼らの出家を止めなかったのかと責められるに違いない。しかもウパーリ(優波離)は、彼らから渡された金銀財宝を手にしていた .......... 。これでは王の意に反するばかりか、自分は罪を問われて処刑されてしまうかもしれない。「だったらいっそ、自分も出家してしまおう」 ............. ウパーリ(優波離)は、城に戻らず、彼らより先に釈迦のもとへ走った

「世尊よ、私のような身分の低いものでも僧になれるのでしょうか」 釈迦は、ウパーリ(優波離)の必死さに打たれた。同時に、ウパーリ(優波離)の素直で一途(いちず)な性格を見抜いていた。釈迦は出家を許した。もとより、仏教教団はカーストを認めていなかった。まったく平等社会である。ただし、後から入った者は先に入った者に敬意を表さなければならないという、法臘(ほうろう)とよばれる規則があった。

さて、ウパーリ(優波離)に続いて6人の若者が到着した。釈迦は、彼らにウパーリ(優波離)を礼拝するよう促した。ウパーリ(優波離)よりはるかに身分の高い彼らはどうしたか。法臘(ほうろう)に従い、快く礼拝したのであった。当然のこととはいえ、カーストを考えれば画期的なことであった。

その後、ウパーリ(優波離)は教団内でめきめき頭角を現していく。とりわけ戒律に精通し、さまざまな事件を調停したことから、持律第一と賞賛されるようになったのである。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、これまで絶対だとしてきた身分制度から、法門の世界へ入った時に、「快く」礼拝したというところに、お釈迦さまの元では身分ではないということをウパーリも、6人の若者も感じたのだと思います。
現代社会では、肩書きや、学歴や資産などで人を判断してしまいがちですが、それにとらわれることなく、接することが大事だということに気づかせていただく話ですね。


次回につづく。


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釈尊と十大弟子、その11 羅睺羅(らごら)



2018 4 8

釈尊の一人息子ラーフラ(羅睺羅)は...。


◎ 釈尊の十大弟子........ 釈尊の率いる仏教教団には、聖者の最高の境地である阿羅漢果(あらかんが)の悟りを開いた弟子が500人いた。その弟子を中心に、多くの信者が集まり、仏教教団を構成委していったのである。「十大弟子」 と 呼ばれる人々は、その中核となって教団を支えた弟子たちのことを指す

☆密行(みつぎょう)第一、 ラーフラ、別名を羅睺羅(らごら)

※父、釈迦の定めた規則を守って便所で寝る

ラーフラ(羅睺羅)は、釈迦の一人息子である。かねてから城を出て出家の旅に出ようと決めていたゴータマ(釈迦)のもとに、妻のヤショダラー(耶輸陀羅妃)が子どもを産んだという知らせが届いた。ゴータマ(釈迦)は、思わず、「ラーフラ」と呟(つぶや)いたという。ラーフラには「障碍、しょうげ」 という意味がある。これから出家しようという身に、愛する子どもは、修行の妨げになるという意味で呟(つぶや)いたのであろう。使いの者から、ゴータマ(釈迦)が「ラーフラ」 と呟いたという報告を受けた父のシュッドーダナ王は、孫をラーフラ(羅睺羅)と名づけた。   

ゴータマ(釈迦)は、ラーフラ(羅睺羅)の誕生から7日後、家族を捨て、真理を求める旅に出たのであった。29歳のときである。それから6年後、悟りを開いて仏陀となり、教えを説く旅をつづけながら、故郷のカピラヴァストゥに帰った。久しぶりに帰った釈迦の一行を、シュッドーダナ王はじめカピラヴァストゥの人々は、それは手厚く迎えたのであった。

ヤショダラーは、ラーフラ(羅睺羅)に言った。「ラーフラ(羅睺羅)よ、ご覧 あの方がお前のお父さまだ。さあ、会いに行って本来親からもらうべき財産をもらっておいで」 母に言われた通り釈迦に会うと、ラーフラ(羅睺羅)は、財産をいただきたいと言った。財産といっても、出家した釈迦には、与えるような物などなにもあるはずがない。ただ、真の教えを除いては。そう考えた釈迦は、シャーリプトラ(舎利弗)に命じてラーフラ(羅睺羅)の出家の儀式を行わせた。ラーフラ(羅睺羅)の突然の出家を知ったシュッドーダナ王と母のヤショダラー(耶輸陀羅妃)は、驚き、嘆き、悲しんだという。

以後、シャーリプトラ(舎利弗)とマウドガリヤーヤナ(目連)が、直接ラーフラ(羅睺羅)のも指導にあたった。ラーフラ(羅睺羅)が、まだ戒(かい)を受けていない見習い僧だったとき、こんなことがあった。仏教教団では、夜の説法が終わると、年長の修行僧はそれぞれの部屋に戻って眠り、若い比丘(びく)たちは、在家の信者たちと一緒に一つ部屋で寝ていた。ところが、夜になると、部屋は信者の寝言やいびきで騒々しい限りであった。ある比丘が、これを釈迦に訴えた。すると釈迦は、戒を受けた者と一般信者は、それぞれ別の所で寝るようにと言い渡した。

さて翌晩である。これまでラーフラ(羅睺羅)の寝る場所は、若い比丘がいろいろと世話をやいてくれていたので確保されていた。ところが、今晩からは、釈迦の決めた規則通りにしなければならない。世話をやいていた比丘は、まだ授戒していないラーフラ(羅睺羅)と一緒に眠ることができないので、ラーフラ(羅睺羅)のことは放っておいた。まだ勝手を知らないラーフラ(羅睺羅)は、どこで寝たらよいのかわからない。迷惑をかけてはいけないので、比丘たちに聞くこともなかった。結局、誰にも迷惑をかけず、規則を守ることのできる便所で眠ることをしたのであった。翌朝、便所にいるラーフラ(羅睺羅)を見つけた釈迦は、その顚末(てんまつ)を聞き出した。

...... 比丘たちは、新たな決まりができるとそれを守ることに夢中になって、わが息子ラーフラ(羅睺羅)でさえ、見捨てて面倒をみなかった。これがもし、他の見習い僧であったらどうであろう ...... 。

釈迦はこれから入ってくるであろう見習い僧のために、先に決めた規則を次のように変えることにした。「今晩、戒を受けていない者でも、勝手のわかるまでの1~2日の間は、比丘の部屋に泊まって良いことにする。だが、比丘は、そういう見習い僧を、3日までには自分で部屋を見つけられる程度に面倒をみ、指導するように」

こうして、新しい規則ができたのであった。後に規則を守ったラーフラ(羅睺羅)の行為は賞賛されて、良く規律を守る者として密行第一といわれるようになった。 (釈迦の本(学研)、その他参照)


追記、決まりを守ることと面倒を見ること、その判断をどうやってやっていくかということだと思います。今の時代とは違って、お釈迦さまの指示がないと、勝手に行動できなかったということなのでしょうね。 お釈迦さまの子でも同じ様に厳しく修行が行われたのだと思います。

さあ~これで全十大弟子をご紹介させていただきました。 法華経の中にいっぱい名前が出て来ますが、一人一人の個性や活躍さが理解されて読むこれからの法華経は、また違う法華経に変わるはずです。 合掌 (白蓮堂)

次回につづく。


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プロフィール

白蓮の香り

Author:白蓮の香り
白蓮堂のブログにご訪問ありがとうございます。“縁起を見るものは法を見る法を見るものは私を見る”(ゴータマ.ブッダ)この世で起こっていることは、全て因果の法則からなのです。あなたの存在、家族の存在、今の苦しみや障害も、前世からの因果の法則です。そのためにも、少しでも多くの人々に真実(宇宙の真理.法則)を知っていただきたく思い仏教の中での最高峰の経典、「法華経」をご紹介させていただきます。私(渡辺西洲)が勧める¨法華経¨と出遭えたなら、あなたに、奇跡が起きます! 一人でも多くの人にご縁がありますように ....... (合掌)

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