第18章「随喜功徳品」その1



随喜功徳1
「法華経」の教えを聞いてほんとうにありがたいと思う心「初随喜」


仏(ほとけ)、弥勒(みろく)に告(つ)げたまわく、
我(われ)今(いま)分明(ふんみょう)に汝(なんじ)に語る。是(こ)の人、一切の楽具(らくぐ)を以(も)って、四百万億阿僧祇の世界の、六趣(ろくしゅ)の衆生に施(ほどこ)し、又、阿羅漢果(あらかんが)を得(え)せしめん。所得(しょとく)の功徳は、是(こ)の第五十の人の法華経の一偈(いちげ)を聞いて、随喜(ずいき)せん功徳には如(し)かじ。百分、千分、百千万億分にして、其(そ)の一にも及ばじ。乃至(ないし)算数(さんじゅ)譬喩(ひゆ)も知ること能(あた)わざる所(ところ)なり。


◎教えに随喜するとは

前章では「分別功徳品」を説いたが、「分別功徳品」では教えを他人に弘める功徳を総論的に説いたので、これからつづいて「随喜功徳品(ずいきくどくほん)」「法師功徳品(ほっしくどくほん)」と「法華経」の教えを広める功徳が詳しく説かれてゆく。

「随喜功徳品」では「初随喜(しょずいき)」の功徳を詳しく説く。教えに喜んで随(したが)うということがいかに大切であるか説き示すのが「随喜功徳品」である。「随喜」というのは喜んで随うことである「ありがたい」と感じることである。

現在の世の中では、「ありがたい」という気持ちがほとんどなくなっている。日常の生活においても、朝、元気で起きられれば、ありがたいのである。食事をおいしくいただければありがたいのである。満員電車に乗っても職場を持つことができるのはありがたいことなのである。さらに言えば、悪いことに出会っても、考え方をかえればありがたいという気持ちになる。病気になっても、これは私の体を仏が休ませようとして入院させてくれたのだ、と思えばありがたいという気になる。どんな逆縁でもありがたいと感じることができる人は仏心を持った人である。

凡人であれば、逆縁を恨む、人を恨む。世間を恨み、不平不満を言う。極端には人を殺すようにもなる。しかし、修行を積み、人間を鍛えあげてゆけば、どんな逆縁もすべてありがたいと思うことができる。死ぬことですらお迎えをありがたいと思うことができる念仏者もいたのである。

このように随喜というのはどんなことにも喜んで随うことであるが、凡人には至難なことである。「法華経」の信仰でいう随喜の意味ならばわれわれでも心の持ち方によって少しづつは実行できることである。仏の教えをきいてありがたいと思うことが、「随喜功徳品」でいう随喜の意味なのである。

「分別功徳品」ですでに説かれたように、世尊が入滅された末世の世の中において五つの信仰の持ち方すなわち「末後の五品(まつごのごぼん)」ということが説かれたが、その中でもっとも初歩的な信仰のあり方が「初随喜」なのである。
「初随喜」とは心から本当に仏の教えを信じることができるようになった最初の状態のことである。その随喜の功徳が大変大きいことをこの品で説き明かしている。仏の教えを少しでも実行することを喜びとする、これが随喜の本当の意味である。実行することによって大いなる喜びが生まれてくる。

この「随喜功徳品」においては、「法華経」の教えを弘めるものには大いなる功徳があることが説かれるが、教えを弘めるということも、自分がほんとうに仏の教えに随喜できた体験がなければこれを人に弘めるエネルギーは出てこない

教えをほんとうに弘めることができる力をもつには、自らが随喜の感動を味わわなければならない。自ら本当に「法華経」の教えを知ってよかった、「法華経」の教えを少しでも実行してよかった。ありがたかった、という体験がなければ人に弘めることはできないものである。「法華経」の行者とは「法華経」の教えを実行する人のことである。

それと同じように、「初随喜」ということが重要であり、「法華経」の教えを聞いてほんとうにありがたいと思い、次にどんなことがあってもこの教えを実行し、一度自分が実行したならば、どんな困難や迫害があってもこの教えを人に弘めるというのが「初随喜」ということである。

次回に、つづく。


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第17章「分別功徳品」その6



祈り
功徳のなかでもっとも重要なのは、¨教えを弘める¨ 。
 


◎大いなる功徳とは

この「分別功徳品」を読むに当たって、昔から四信五品(ししんごほん)ということを説く。詳しくは「在世(ざいせ)の四信」と「末後(まつご)の五品」ということである。「在世の四信」とは仏がこの世におられるとき、仏の教えをじかに聞いて信じる信じ方を、浅い信仰から深い信仰の順番に四つにわたって説いたものである。それは、(一)一念信解(いちねんしんげ)、(二)略解言趣(りゃくげごんしゅ)、(三)広為他説(こういたせつ)、(四)深信観成(じんしんかんじょう)、である。

(一)一念信解(いちねんしんげ)とは、「法華経」のなかの一句でも一語でも少しでも理解でき、信じられるようになること、一日の間、たった一分間でもよいから、それを信じることが大切である。まず初心者はここから入らなければならない
(二)略解言趣(りゃくげごんしゅ)とは、ほぼその言趣(ごんしゅ)(仏のお説きになる意味)が理解できてくることである。お経の全体の趣旨がだんだん理解できるようになることである。
(三)広為他説(こういたせつ)とは、広く他人のために説くことである。自分がある程度わかってきたならば、その喜びを他人に分かち与えることが何よりも大切である。
(四)深信観成(じんしんかんじょう)とは、深く信じて正しい見方考え方が完成することである。ちょっとぐらい経文を読んでもなかなか深くはわからない。何度も何度も読み返し、自分の信心と年齢が深まるにつれて、しだいにお経に対する見方が定まってくるものである。このお経に対する考え方がしっかりしてくるのが「観成」(かんじょう)である。

仏のおられない末世(まつせ)には、残された経典によって修行するしかない。その方法を説いたのが「末後(まつご)の五品ごほん)」である。それは、(一)初随喜(しょずいき)、(二)読誦(どくじゅ)、(三)説法(せっぽう)、(四)兼行六度(けんぎょうろくど)、(五)正行六度(しょうぎょうろくど)である。

(一)初随喜(しょずいき)とは、お経を読んでいると深い喜びを感じてくることである。
(二)読誦(どくじゅ)とは、ただ一心にお経を読むことである。自己の全存在をお経に帰入(きにゅう)させて読むのが真の読誦である。
(三)説法(せっぽう)とは、教えを人に対して説くことである。単に口先だけで説くのではない。信心の喜びにあふれた顔で説き、全身で説き、行いで説く。
(四)兼行六度(けんぎょうろくど)とは、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)の教えを、できるだけ努力して一つでも行えるように努めることことである。
(五)正行六度(しょうぎょうろくど)とは、兼行六度をしだいに実行し深めてゆけば、いかなる時、いかなる場所においても、この六つの修行を行うことができるようになることである。

初めに説いた「在世の四信」でも、後の{末後の五品」でも、だんだんと教えを信じ、それを行なってゆくことを順序よく説いたものである。「分別功徳品」の経文の最後の段は、「法華経」を弘めさえすれば別に仏のために塔を建立したりする必要はないことを説く

七宝の塔を建て、僧坊を造り、衆僧を供養しないでも、「法華経」の経巻を供養すればよいのである。普通には仏塔を建てたりするほうが、功徳が大きいと考えやすいが、経文を供養することは、それらと同じほどの大いなる功徳があるという。功徳のなかでもっとも重要なのは、¨教えを弘める¨ ということである。



次回から、、第一八章、随喜功徳品(ずいきくどくほん)に入ります。


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第17章「分別功徳品」その5



白蓮7.15
仏とともにあるということを観ずる



◎我れ仏とともにあり

その時、仏は重ねて偈文(げもん)によってこのことをお説きになった。布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五つの波羅蜜が再び説かれる。この五つの波羅蜜を修行することはたいへんによいことであり、それによって立派な人となることができるが、仏の寿命が永遠であることをほんの一念でも信じるならば、前の五つの修業よりも、比較することができないくらい優れている。仏を知るという智慧の中に、この五つの修行はみな含まれてしまうことになる。

其(そ)れ諸(もろもろ)の菩薩の無量劫(むりょうごう)に道を行ずるあって、わが寿命を説くを聞いてこれ則(すなわち)能く(よく)信受せん。

と経文にあるが、大変長い年月にわたって菩薩の道を修業してきたものは、仏の寿命が永遠であることを聞いてすぐに信受することができるというのは重要である。本当に深い心をもって仏の教えの表面だけでなくその教えの中にまで入って学ぶことができる人の心は清浄となり質直(しちじき)となる。質直というのは心が真っ直ぐで、ただひとすじに仏の教えを歩む人の心をいう。ひたすらに仏の教えを知りたいとただひとすじに生きる人は、仏の教えを聴いてみなそれを実行できる人である。

さらにつづいて、仏は弥勒菩薩に呼びかけられる。仏の寿命の永遠なることを聞いて、その意味がよく分かるようになれば、その人の得るところの功徳は無限であり、仏の無上の智慧を起こすことができよう。ましてこの法華経の教えを自分が聴くばかりでなく、多くの人に聴かせ、自分が受持するばかりでなく、多くの人に受持させ、さらに自分が教えを書くばかりでなく、多くの人に書かせるならばその功徳は大きい

さらに花や香や、瓔珞や幡や天蓋や香油や灯明などを、この「法華経」に供養するならば、その人の功徳は限りなく大きく仏の智慧を生じることができようと説く。

「法華経」を供養するということは、無限の生命を説いている。「法華経に対して我々の感謝の気持ちをあらわすことになる。供養する物の大小や多少はどうでもよい。供養せずにはいられないその気持ちが尊いのである。

仏の寿命が永遠であることを深く信ずれば仏が常に耆闍崛(ギシャクツ)山=霊鷲山(りょうじゅうせん)にあって菩薩や声聞たちに囲まれて説法している姿を見ることができる。仏の寿命の永遠を信ずれば仏がこの現在においても、この場所で説法しているということが本当にわかるようになる。仏が常在説法していることが分かれば、この自分も常に仏とともにあるという自覚を持つことができる仏とともにあるという自覚こそ人間としてもっとも大きな喜びであり、それこそが宗教的生活を成り立たしめることができる

このように仏とともにあるということを観ずることができればそれを「深信解(じんしんげ)の相(そう)」と呼ぶ。深信解の相都は、深く仏の教えを信じ理解した姿にほかならない。如来の滅後にこの「法華経」の教えを聞いて、その教えをそしったり非難したりすることが絶対になく、喜んで教えにしたがうことができることは深信解の相である。

随喜(ずいき)の心」を起こすということが大切である。どんなことにも喜んで従うことは大切であるが、「法華経」の教えを聴いてそれに随喜することは何より大切なことである。

次回に、つづく。


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第17章「分別功徳品」その4



無上の心
真の仏を知ることは、いかに大事か。



◎無上の心とは

「寿量品」を中心とした「法華経」で、もっとも重要な「一品二半」(いっぽんにはん)を説く「分別功徳品」の経文の最後は、次の言葉で結ばれている。

仏寿(ぶつじゅ)の無量なることを聞いて、一切(いっさい)、皆(み)な歓喜(かんぎ)す。仏の御名(みな)、十方(じゅっぽう)に聞こえて、広く衆生を饒益(にょうやく)したもう、一切善根(いっさいぜんこん)を具(ぐ)して以(も)って無上の心を助(たす)く。

この経文は短いが、「分別功徳品」の精神を見事に簡潔に描いている。
仏の生命が無限であることを聞いて、すべての人々は大いなる喜びに満たされた。仏の御名は十方に聞こえて、大ぜいの人々を救い、功徳を与えてくださる。われわれは善根を積むことによって、「無上の心」の実現を助けてゆく。

ここでいちばん大切なのは「無上の心」である。無上の心とは、悟りを求める心仏の境涯に到達することを願う心である。この無上の心を体験するために、あらゆる善根を積んでゆかなければならないのである。ここまでで、一品二半といわれる「法華経」の核心部分が終わることになる。「法華経」の構成は序分(じょぶん)、正宗分(しょうしゅうぶん)、流通分(るずうぶん)、の三部分から成るわけであり、「方便品」から「分別功徳品」のここまでが正宗分にあたり、これ以下は流通分になる。

正宗分というのはお経の中で一番大切なところであり、さらにその核心となるのが、「寿量品」を中心とする一品二半である。流通分はこの教えを世の中に弘めればどのような功徳があるかを説いたところである。

正宗分だけであれば、お経の中心思想がわかるので、それで十分でないかと考えられるが、それだけでは不十分なのである。
そこで、流通分(るずうぶん)では正しい信仰をもてばどんな結果が現れるか正しい信仰を持つにはどうしたらよいか、という極めて具体的な実践法が説かれることになる。

そのとき、仏は弥勒菩薩にお告げになった。「あらゆる衆生が仏の寿命が無限であることを聞いて、それを信じ理解するならば、そこから得られる功徳は無量である」とおおせになり、さらにつづいてそのことを詳しくお説きになった。

まず、仏の境涯(きょうがい)に到達したいと思って長い間に五波羅蜜(ごはらみつ)を行じたらどうなるか。五波羅蜜とは般若波羅蜜(はんにゃはやみつ)を除いた檀波羅蜜(だんはらみつ)と尸羅波羅蜜(しらはらみつ)と羼提波羅蜜(せんだいはらみつ)と 毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ)と禅波羅蜜(ぜんはらみつ)である。波羅蜜とは梵語のパーラーミターの音訳で「到彼岸」(とうひがん)と訳す。「到彼岸」とは悟りの世界に到達するということである。

五波羅蜜の、
⑴檀(だん)波羅蜜とは布施のことであり、檀とは檀那(旦那)を略した言葉で人にものを与えることである。布施をすることによって悟りの境地に到達しようというのが檀波羅蜜である。

⑵尸羅(しら)波羅蜜の尸羅とは清涼(しょうりょう)のことで、持戒のことである。戒律を正しく保つことによって、清涼の境地を得ることができる。

⑶羼提(せんだい)波羅蜜とは忍辱(にんにく)のことである。どんなことがあっても腹を立てないのが忍辱である。簡単なようでなかなか実行できないのが忍辱である。

⑷ 毘梨耶(びりや)波羅蜜とは、精進のことである。精進努力が仏道修行の上でどんなに大切であるかはお経でも説いているし歴史の祖師たちが常に戒めていることである。

⑸禅(ぜん)波羅蜜とは禅定のことであり自分の心を静めて散乱させないこと。

以上の布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五つの修行は結局のところ般若(はんにゃ)波羅蜜、すなわち正しい智慧を得るためにほかならない

この五つの波羅蜜はどれ一つをとってもなかなか実行できないものばかりであるが、この五つの波羅蜜を行ずる功徳は仏の生命が無限であるという本当の仏を知ることの功徳に比べれば百分の一、千分の一、百千万憶分の一にも及ばないと説く。五つの波羅蜜を行じることと、真の仏を知ることとは価値が全く異なるということを、はっきりとここに名言しているのである。

次回に、つづく。


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第17章「分別功徳品」その3



功徳品3
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)..................いかなる環境にも支配されない




◎不退の地に生きよ

仏の永遠の命を確信することによって、多くの菩薩が功徳を得ることをお説きになると、虚空(こくう)から、大きな白い蓮の花が降ってきた。獅子座の上に座っているたくさんの仏の上や、七宝の塔の中におられる釈迦牟尼仏や、久しい間滅度(めつど)していたが教えの真実を証明するために出現された多宝仏の上にも、さらには一切の菩薩や比丘、比丘尼、優婆塞(うばそく=在家の男の信者)優婆夷(うばい=在家の女の信者)の上にも花の雨が降ったのであった。

さらに天から香りのよい栴檀(せんだん)や沈水香(じんすいこう)の雨が降り、虚空の中では天の太鼓が妙なる調べを鳴り響かせていた。花も香りも太鼓も仏の教えをほめたたえるためのものである。また、いろいろな天の衣を雨ふらし、瓔珞(ようらく)、真珠、摩尼珠(まにしゅ)、如意珠(にょいしゅ)のような宝石をたらし、立派な香炉(こうろ)に価もつけられないほどの立派な香を焚いて仏を供養した。

一人一人の仏の上には、菩薩が幡(はた)や天蓋(てんがい)をもってさしかけ、これが梵天にまでずっとつづいていた。菩薩たちは美しい声で仏の徳をたたえる歌を歌っていた。そのとき、彌勒菩薩は立ち上がって右の肩を肌ぬいで仏に向かって合掌して申し上げた。

「世尊は仏の生命が無限であり、一切衆生の生命もまた仏の生命と同じく無限であることをお説きくださいました。このような教えは昔から今まで聴いたこともありません。この教えによって、仏には一切衆生を救う大いなる力があり、またその寿命が無量であることを知りました。それによって我々衆生は、世尊がわかりよくお説きくだっさた法の利益この自分の身にひきあていつかは仏の境界(きょうがい)になれることがわかり、身にあふれるような喜びでいっぱいです。」と。

ここからの弥勒菩薩がお説きになる偈文は、前に説かれた長行の部分とほとんど同じ内容であるが、前の長行は世尊が説かれたのに対して、この偈文は彌勒が自分で理解した教えを語ったのである。彌勒は仏の永遠の生命を信じる者には多くの功徳があることを身をもって確信し、承認したのであった。

或(あるい)は不退(ふたい)の地(じ)に住(じゅう)し、或(あるい)は陀羅尼(だらに)を得(え)、或(あるい)は無礙(むげ)の楽説(ぎょうせつ)、万憶(まんおく)の旋総持(せんそうじ)あり。

と、前に述べた功徳をくりかえしているのであるが、若干表現が異なるところもある。たとえば、「不退の地に住し」とあるのは、長行では「無生法忍」とあったのと同じ意味である。不退の地とは、、修行人生のどんな逆境にあっても、心を動かすこともなく修行をやめないで続けることである。

「華厳経」には、「結跏趺坐(けっかふざ)しては願う(ねごう)べし。善根堅固(ぜんこんけんご)にして不動地(ふどうじ)を得(え)んことを」と説く。座禅を組み、善行を修することによって不動地、すなわち不退の地に住することができる。

また同じく、「足を下(おろ)して住むときは願うべし、解脱(げだつ)を得て不動に安住せんことを」と説く。足を一歩一歩下すときは、何としても解脱して不動の地に安住することを願え、というのである。

日常生活の行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、いかなることをするときも、不動の地に住することを願うということは、いかなる環境にも支配されないことである。

仏法を思い成仏を願い解脱を志しているものは周りの環境にひきずられて退失することはない

次回に、つづく。


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プロフィール

白蓮の香り

Author:白蓮の香り
白蓮堂のブログにご訪問ありがとうございます。神界、霊界、人間界(魂.心.肉体)は綿密に繋がっています。少しでも多くの人々に真実を知っていただきたく思い仏教の中での最高峰の経典、「法華経」をご紹介させていただきます。私(渡辺西洲)が勧める¨本物の法華経¨と出遭えたなら、あなたに、奇跡が起きます! 一人でも多くの人にご縁がありますように ....... (合掌)

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