第20章「常不軽菩薩品」その2



常不軽菩薩
常不軽菩薩の生まれ変わりは、お釈迦様です。


◎礼拝行(らいはいぎょう)とは...................人を軽んずることなし

威音王仏(いおんのうぶつ)の寿命はたいへんに長く、正法(しょうぼう)と像法の時代をずっと説法しつづけた。
正法というのは仏の正しい教えが行われていた時代であり、像法というのは正しい教えに似た教えが実行されていた時代であるがその時代は長い長い時間続いたのであった。正法、像法の時代が過ぎると、またこの国に仏が現れた。その仏の名前は、前と同じく威音王如来であった。このようにして無限の長い間に仏が二億人も現れたが、名前はみな同じであった。

同じ仏がいつの時代にも現れて教えを説くことは、仏が滅びないことを意味している
どんな世の中になっても仏は存在するというまことに力強い思想である。このことは「法華経」の一貫している考え方である。
最初の威音王如来がなくなられたのは、時代が正法から像法の時代へと移っていったときのことであった。
像法の時代は仏の教えをその通り実行するのがうとましくなり、理屈ばかりまかり通る世の中であり、増上慢の比丘が大きな勢力をもってきた増上慢の比丘とは学問ばかりして実行しない人のことである。たくさんの経論を読んでいるから、なんでもよくわかった、俺はなんでも知っている、と思う人のことである。

この増上慢の比丘のなかに、一人だけちがったひとがいた。それは常不軽(じょうふきょう)という菩薩であった。この人をどうして常不軽というのかというと、それには理由があった。この人は途中で行き会う人がいると、どんな人にも礼拝し讃嘆(さんたん)したのであった。そして「私はあなたたちを心から敬っています。決して軽んじません」と言った。相手がどんな職業の人であろうと、一切関係がなく、どんな人に対しても真心をこめて敬ったのである。どんな人も軽んずることがなかったから、「常不軽菩薩」と言われたのである。

この人は常不軽菩薩は経典を読誦することをしないで、ただ礼拝を行うだけであった。そしてどんなに遠くにいる人のところへも出向いて行って、必ず礼拝を行なった。そして必ず、「私は決してあなた様を軽んじません。皆さんも必ず仏になれるのですから」と言った。

常不軽菩薩が人々を礼拝する理由はどんな人でも仏になれる本性を持っているから、菩薩の道を行じさえすれば必ず仏になれる、ということを確信していたからであった。大乗の教えによって修行すれば必ず仏になれるので、どんな人に対してもこれを軽んずることがなかったのである。
常不軽菩薩があらゆる人を礼拝したのは何の為か。その人に必ず仏になれるという自覚を与えるためであった。

どんな人に対しても、「深く敬う」ということは、その人に対して深い反省を促すためであったあなたも自分自身を大切にしなさいあなたの中に仏性があるのですよしかもその仏性を修行によって開発すれば仏になれるのですよ。こういうことをその人が反省するようにと、常不軽菩薩はあらゆる人に対して礼拝を繰り返したのであった。

「お前たちは、貴い仏性を持っている。それを自分で気がつかないのは何と悲しいことか。早くそこに気づいて、その貴い仏性を発揮するようにしなさい。」と口で会う代わりに、ただ黙って礼拝をしたのは、口で言うよりももっともっと強烈な印象を人に与えたかったからである。お経の講義をするだけであれば、仏教の知識さえ修得すればどんな人でもできる。しかし、どんな人に対しても礼拝することは決してできるものではない。

しかも、この常不軽菩薩が、どんなに遠い人のところにも出かけて行って礼拝したと言うのが重要である。たまたま親しい人、縁のある人を礼拝することはやろうと思えばできることかもしれないが、遠い所の人にまで行って礼拝するということは普通の人のできることではない。一切衆生を救おうという強烈な情熱と信念がなければそれはできない

次回につづく。


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第20章「常不軽菩薩品」その1



10.21 2016
(人間の生存の苦しみは煩悩が集まっているからである)



◎威音王如来(いおんおうにょらい)の説法

「法師功徳品」は法師になるための修行について説いたものだが、その修行ができる人もいればできない人もいる。五種の修行といわれると、ただ形式的にそれをやればよいと考える人もいる。「法華経」を読誦(どくじゅ)すればよいとなると、ただ、毎日、何時間読んだから、自分は救われると考える人もいる。しかし、一番大切なことは本当に心の中から仏の教えを信じ誠心誠意をもって信仰に生きなければならないことである。信仰者の態度が重要なのである。この「常不軽菩薩品」に出てくる常不軽菩薩という人はまさしくこのような立派な態度に徹した信仰者であり、どんな人間にもきらりと輝く物証があることを確信し、あらゆる人々を礼拝した人の話である。

あるとき、仏は得大勢菩薩にいわれた・「法華経」の教えを信じ実行している者に対して悪口を言ったり、罵(ののし)ったり、謗(そし)ったりする人がいれば、必ずその報いとして大きな苦しみに合うことはすでに説いたことであり、さらにその反対に「法華経」を弘めるために力を尽くしたものは六根が清浄になることも説いた。

六根というのは眼、耳、鼻、舌、身、意のことで、人間の精神と身体のすべてであり、「法華経」を弘めるとこの六根が清浄になるという大いなる功徳を得ることができると説いている。このような無限の功徳を得ることができる「法華経」を弘めるということはいったいどういうことなのか。これから仏がお説きになるのは一つの過去の物語ではあるが、ここに説かれた内容は現代にもそのまま通じる話である。すなわち常不軽菩薩のお話である。

昔、威音王如来という仏がいた。その菩薩がいた時代を「離衰(りすい)」と名付け、その国を「大成(だいじょう)」といった。その威音王如来は天、人、阿修羅のために教えを説いた。声聞のためには四諦の教えを説いて生老病死という苦しみからまぬがれるようにした。縁覚(えんがく)を求める者には十二因縁の教えを説き、菩薩を求める者には六波羅蜜の教えを説いた。

四諦というのは苦・集・滅・道の四つの真理で、人間の生存の苦しみは煩悩が集まっているからであり、その煩悩を滅すれば、正しい道が得られるという教えである。諦という字は諦(あきら)めること、真理を知ることの意味である。この四諦の教えによって「生老病死」という人生の苦しみから逃れることができると説いた。「生老病死」とは人生の変化のことで、変わることはすべて苦しいことなのである。この苦しみは現代においても昔と少しも変わることはない。どんなに医学が進歩してもこの苦しみから逃れることはできない。

縁覚(えんがく)が境界(きょうがい)を求めるために説いた十二因縁とは、⑴無明⑵行⑶識⑷名色(みょうしき)⑸六入⑹触⑺受⑻愛⑼取⑽有⑾生⑿老死の十二でここでは詳しことは省略するが要するに人間の生存の十二のあり方であって、その因果関係や輪廻のあり方を説いたものである。

さらに、自分のためだけの悟りを求める声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)とちがって、世の中の人々を救おうという理想を持つ菩薩は六波羅蜜、すなわち布施とか忍辱とか精進など六つの実践を行うことによって、成仏できると説く。

この声聞には四諦を、縁覚には十二因縁を、菩薩には六度(ろくど)を説くというこの「法華経」の教えは後代に大きな影響を与えて仏教学の定説になってゆく。

次回につづく。


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第19章「法師功徳品」その6



不惜身命
不惜身命(ふしゃくしんみょう)の説法とは




◎身体に映すとは その2

最後に(こころ)の功徳が説かれる。 経文は

この清浄の意根(いこん)を以って、ないし一偈一句を聞くに、無量無辺の儀を通達(つうだつ)せん。

と、説いている。清浄の意根とは、すっかり煩悩や迷いがなくなった清らかな心である。このような清らかな心で経文の一偈(いちげ)でも一句でも聞けば短い文句でも、はかり知ることができない無量無辺の深い意義がわかるようになる。

このようにお経の一偈、一句の深い意味が分かったならば、これを人に向かって説かなければならない。そのわずか一句の意義を解きあかすために、一か月でも四か月でも、さらには一年かかっても、なお 説くことは無限にある。このようにして説くところは仏のお説きになった趣旨と違うことはなく、また諸法の実相、すなわち宇宙の心理に背くことがないのである。

このような清らかな心を持つと、あらゆる世界の衆生の心の動き心のはたらき心が求めているものすべてを知ることができるようになる。仏のような全く煩悩のない智慧までは到らないものであっても、ただ心を清らかにしただけで無限の功徳がそなわるのである。仏法に叶い、真実のことを話すものは強い。 経文には

この人の所説あるは、皆これ先仏の法ならん。この法を演(の)ぶるを以っての故に、衆に於いて畏(おそ)るる所なけん。

と、説かれている。このような人の説法は、ただこの人だけが語っているのではなく、多くの仏が語っていることになる。こうなると、この教えを説く人は何ものも畏れるものがなく、不昔身命の説法ができるようになる。このようになれば、梵天にも帝釈天にも海にも、恐れることなく教えを説けるようになる。新羅(しらぎ)の縁光(えんこう)が帝釈天と海神に教えを説くことができたのは、この力による。

この「法師功徳品」では法師の行うべき五種の修業を実行してゆけば、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根を清浄にすることができるようになり、その清らかな六根には無限の功徳が備わることを説いた。

この品では「法華経」を信じる功徳の大きいことを説いているが、世の中には「法華経」信じない者もいる。そういう人にはどうしたらよいか。「法華経」を信じていない人でも「法華経」を信ずることができるような本性を備えているのである。「法華経」を非難する人でも、その人を憎んだり軽蔑してはならない。

次回から、第二十章 常不軽菩薩品に入ります。


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第19章「法師功徳品」その5



宝石2
宝玉のような身体に



◎身体に映すとは その1

つぎに経文は身の功徳について説く。法師として五種の行を積んでゆけば、身に無限の功徳がつき、清らかな身となることができると説く。身が清浄になれば、その人のすがたを見るとおのずと見た人の心も清められてゆく。よい例は優れた観音像や仏像を名刹(めいさつ)のなかで見たときである。大和の聖林寺(しょうりんじ)の十一面観音のお姿を見ていれば、自分の心が自然に洗い清められていく気がするものである。経文には、
 
浄明(じょうみょう)なる鏡に、悉(ことごと)く諸の色像を見るが如く、菩薩浄身(ぼさつじょうしん)において、皆、世の所有(しょう)を見ん。唯(ただ)独り自(おのず)から明了にして、余人(よにん)の見ざる所ならん。

とある。清浄な身にあらゆるものが映現(えいげん)するのは、浄(きよ)らかな鏡にすべてのものが映るようなものであるという。清浄な身体にすべての物が映るというのが大切である。ちょうど身体が清浄な鏡やスクリーンのようになる。

身体に映るというのが宗教では重要なのである。目や心に映るのではなく、身体に映るとはどういうことか。身体が五種の法師の修行を長い間行ってゆくと、身体は単なる物質ではなくなってくる。それは霊的存在となる身体は修行によって無限に感度と純粋度を高めてゆくことができる。身体を朝鍛夕錬(ちょうたんせきれん)することによって鍛えてゆくならば、宝玉のような身体となる。身体がありとあらゆるものを感じるようになる

意識は眠っていても、身体はどんな微細な気にも感応するようになる。身体が霊妙な働きを備えるに至る。座禅の修行も、武道の修行も、身体を霊妙にするためのものである。身体を朝鍛夕錬することによって、身体には宇宙の生命大地の気が感応するようになる仏の生命が乗りうつるようになる。経文はあり得ないことを述べているのではない。これはやれば必ずそうなることを説いているのである。

次回につづく。


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白蓮堂のブログにご訪問ありがとうございます。神界、霊界、人間界(魂.心.肉体)は綿密に繋がっています。少しでも多くの人々に真実を知っていただきたく思い仏教の中での最高峰の経典、「法華経」をご紹介させていただきます。私(渡辺西洲)が勧める¨本物の法華経¨と出遭えたなら、あなたに、奇跡が起きます! 一人でも多くの人にご縁がありますように ....... (合掌)

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