第24章 妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)その1



2017 2 26

仏の功徳は、あらゆる人に恵む力をもっている。


◎妙音菩薩 ............. 三十四身に身を現じて衆生を救う菩薩である。東方におられる。

◎観世音菩薩 ........ 三十三身に身を現じて一切の衆生を救う。西方におられる。

三十四身や三十三身に姿を変えて現れるのは、さまざまな衆生がいるからである。その衆生の能力もさまざまである。これで三十四身に姿を変えて、それにふさわしい能力の衆生を救うことになる。

法華三昧(ほっけざんまい)とは.......... 法華経の教えを体得しようとして心を集中させることである。この法華三昧にはいろいろなやり方があるので、十六の三昧をあげて説明している。この十六の三昧のなかの一つでもほんとうに実行できれば、それによって次第に法華三昧に近づくことができる。

娑婆世界とは、苦しみがいっぱいのこの世界のことである。この世界で教えを弘めるのは容易なことではない。その大変な仕事を受けもっているのが、釈迦仏なのである。このよごれた世界にこそ仏国土を実現しなければならないのである。

娑婆世界の国土や仏や菩薩を低く見てはならないという考え方は重要でありちょうど美しい蓮の花が泥土から咲きでるように娑婆世界のようによごれた世界からこそ真の仏国土が現成(げんじょう)してくるのでのである。それは「法華経」を一貫する考え方であり、「維摩経」(ゆいまきょう)などもそうであり、大乗仏教を通じる考え方である。

仏の身体は無量無限であるが、それが娑婆世界にあらわれると、身が小さいというのは、娑婆世界に住むわれわれ人間がちいさいからである。身体も智慧もみな矮小(わいしょう)なのである。この矮小(わいしょう)な衆生にあわせて身を小さくされたのである。

妙音菩薩が娑婆世界に行くために、如来の「神通遊戯」(じんつうゆげ)と如来の功徳と智慧をお借りしたいと言った。神通遊戯とは、自由自在な力のことである。どんなことがあっても自由自在に振る舞うことができなければ、娑婆世界において教えを説くことはできなくなる。さらに仏の功徳はあらゆる人に恵む力をもっているので、それを受けて娑婆世界に行かなければ、目的を達することができないことになる。

※追伸、先ずは、仏界(霊界)を成就しないかぎり、今世も来世の幸せは無理です。たえず、生老病死の中でさ迷う四苦八苦の人生でしょう。神界(感覚、感性、芸術性)の世界は別次元です。 巧みに人を操る魔界に騙されないでください! その判断は、ご自分の姿を見たら一目瞭然です。健康で明るくスッキリした体形の自分でしたら、正しい道を歩んでいる人です。まだ間に合います。法華経を手にして(魔界を追い払い)一緒に頑張りましょう!(西洲)

次回につづく。


法華経の入手の仕方や方法は

※くわしくは、白蓮堂のホームページをご覧ください(^_^)v
 
↓↓

↓↓

法華経と共に! 白蓮堂 
http://www3.hp-ez.com/hp/magokoro18
 


第23章 薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)その4



法華経 曼荼羅

「無生法忍」(むしょうほうにん)という最高の悟りを得たならば無数の諸仏が見えるようになる。


◎無限の功徳

薬王菩薩が自由自在に教化できるのは、難行苦行の結果なのである。

「法華経」は一切衆生を救うものであり、一切衆生の苦悩を離れさせてくれる。人間は生きている限り苦しみから離れることはできない。どんな人にも人に言えない悩みがあるはずである。そのような苦悩を「法華経」の教えは離れさせてくれるのである。「法華経」の教えによって苦悩を離れることができるということは、自分が仏の心になれば自然に苦悩をなくすことができるようになるからである。 経文は、

此(こ)の経は能(よ)く大(おお)いに一切衆生を饒益(にょうやく)して、その願いを充満(じゅうまん)せしめたもう。

とあるように、一切衆生に利益(りやく)を与え、「その願い」をみたしてくれるという。「その願い」とは何か。われわれの心の奥底にある願いである人は一人では生きられない多くの人々とともに平安に和(なご)やかに生きることが願いなのである。その願いをみたしてくれるのが「法華経」の教えなのである。

それはあたかも清らかな冷たい水が湧きでている池へ行けば、のどの渇きをいやしてくれるように、寒いときに火を得るように、「法華経」の教えを得れば一切の苦しみから逃れることができる。それは病のときの薬であり、闇夜のともしびであり、渡りに船であり、貧しきに寶(たから)を得たるが如く。「法華経」は衆生一切の苦しみ、痛みを離れさせ、「能(よ)く一切の生死(しょうじ)の縛(ばく)を解(と)かしめたもう」のである。

生死の縛」(しょうじのばく)とは、この世を生きるにあたって自分を縛(しば)るものである。人生の明日はどんなことが起こるかわからない。人生は流転(るてん)し、さすらいの旅と同じである。何か事が起こったときに動顚(どうてん)することが自分を縛るものなのである。この縛りを放ちといてくれるのが「法華経」の教えである。「法華経」の教えがまことにありがたい教えであることがわかれば、当然その教えが書いてある「法華経」に対して感謝の念をあらわすために供養するようになる。

如来の滅後、五百年の時、女人(にょにん)がこのお経のように修行すれば、命が終わるときに安楽世界の阿弥陀仏のところに生まれることができる。死して極楽に生まれることができるばかりでなく、生きている間は三毒に悩まされることはない。三毒とは(むさぼ)(いか)(おろか)であり、さらに女人(にょにん)に多い煩悩である嫉妬(しっと)や驕慢(きょうまん)に悩まされることがないという。

かくして菩薩の神通力を得て「無生法忍」(むしょうほうにん)という最高の悟りを得たならば、眼根(げんこん)が清浄になり、この清浄な眼玉によって無数の諸仏が見えるようになる

焼身供養を説いたこの品は、中国、日本においても重視され、この品の思想によって腕を焼いたり、焼身供養する人が現れたことは、この品の教えが大きな影響を与えたからである。

次回から、第24章 妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)に入ります。


法華経の入手の仕方や方法は

※くわしくは、白蓮堂のホームページをご覧ください(^_^)v
 
↓↓

↓↓

法華経と共に! 白蓮堂 
http://www3.hp-ez.com/hp/magokoro18
 


第23章 薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)その3



薬王菩薩
「法華経」を受持(じゅじ)するものは、一切衆生のなかでももっともすぐれた第一の人である。


◎両腕を焼く

薬王菩薩が自由自在に教化できるのは、難行苦行の結果なのである。

腕を燃やして供養するとは、自分の身を苦しめ、難行苦行することを意味する。一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)は、仏恩に感謝するかたい決心を大ぜいの人々の前で具体的に示すために腕を焼いたのであった。この一切衆生喜見菩薩の決意のしるしを見た人々は、仏の智慧を悟り、仏の教えを必ず弘めなけらばならないと決意したのであった。

一切衆生喜見菩薩が自分の身を焼いて仏を供養したということは、仏の悟りを得るために過去世(かこせ)において難行苦行したことを示している。最大の自己犠牲もいとわず、仏の教えを弘めることに粉骨砕身した精進を示している。

※発心して仏の智慧を得ようと思う者がいたならば、燃灯供養せよ。物よりも、どんな苦しみに耐えても修行しようという志のほうが尊いのである。自分が法(法華経)のために骨をおること、それに勝る供養はない。

川や湖の水がどんなにあっても、海にくらべれば問題にはならない。海が第一であるのと同じように、この「法華経」はたくさんのお経のなかでももっとも深大なものである。海には多くの川が流れて集められるのと同じように、多くの他のお経の教えは「法華経」で統一されているのである。インドには多くの山があるが、そのなかで須弥山(しゅみせん、ヒマラヤ山脈)が第一であるのと同じように、「法華経」こそが諸経のなかで最上なのである。須弥山(しゅみせん)はただ高いというだけでなく、世界の中央にありあらゆるものを統一する。「法華経」もまたあらゆる教えの中心となって統一するから、「法華経」が最上であるというのである。

また天には無数の星があるが、月がもっとも明るく第一であるように、「法華経」こそがあらゆる教えのなかで人の心を明るくする。「法華経」は人生のともしびとなり、闇夜を照らす光明となる。さらに太陽が東の空に現れると夜の闇が消えて明るくなるのと同じく、「法華経」は「不善の闇」を破る。智慧のない者に人生の智慧の光明を与えるのが「法華経」なのである。また、王さまのなかでは、転輪聖王(てんりんじょうおう)が一番偉いのと同じように、「法華経」は多くのお経のなかでも「尊い」のである。尊い国王は人民を導いてゆかなければならない。他の教えを信じる人たちを「法華経」の教えに導いてやることが大切なのである。

さらに帝釈天(たいしゃくてん)は天上の最高の天王であるが、その帝釈天に比較されるのが「法華経」であり、まさしく諸経の王なのである。さらに大梵天王(だいぼんてんおう)が一切衆生の父であるように、この「法華経」も一切の賢聖(けんじょう)、学(がく)、無学(むがく)、菩薩(ぼさつ)の父である。さらに、凡夫に比べれば小乗の悟りを得た声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)のほうがすぐれているのと同じように、「法華経」は一切の仏の説いたこと、菩薩が説いたこと、声聞が説いたことなど、ありとあらゆる小乗から大乗にいたるまでのお経のなかで第一である。「法華経」が諸経の王であり、多くの教えのなかの最高のものであることはわかったが、さらにこの「法華経」を受持(じゅじ)するものは一切衆生のなかでももっともすぐれており第一の人である

「受持」するとは、かたく信じて身に保ちつづけ、その教えを実行することである。

追伸、私事ですが(西洲)、この薬王菩薩本事品23品は、法華経の中でも一番、読み込んだ品でもあります! 自分の両腕まで焼き捨ててまでも、法華経を信じることができるか? ここまでの決意があってこそ法華経を守護する仏様になれたのだと、やっと悟れた小生です。 


次回につづく。


法華経の入手の仕方や方法は

※くわしくは、白蓮堂のホームページをご覧ください(^_^)v
 
↓↓

↓↓

法華経と共に! 白蓮堂 
http://www3.hp-ez.com/hp/magokoro18
 


第23章 薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)その2



2017 2 17
法(法華経)の供養が最上の供養となる。


◎焼身供養の意義

薬王菩薩が自由自在に教化できるのは、難行苦行の結果なのである。

一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ、この菩薩がすなわち薬王菩薩である)という菩薩や、声聞衆(しょうもんしゅ)のために「法華経」 をお説きになった。この一切衆生喜見菩薩は「法華経」 の教えを聴いて、よし自分もどんな苦しい修行でも耐え忍んで必ず成仏してみせると決心した。やがて修行の結果、「現一切色身三昧」(げんいっさいしきしんざんまい)という霊力を得ることができた。現一切色身三昧というのは、相手に応じて適当な姿を現し相手にふさわしい教えを与えることができる霊力のことである。長い間の苦行の結果、このようなすばらしい霊力を得たのである。

諸(もろもろ)の施(せ)の中に於(お)いて最尊最上(さいそんさいじょう)なり。法を以(も)って 諸(もろもろ) の如来を供養するが故(ゆえ)にと。

焼身供養とは、法(おしえ)をもって仏に供養することなのである。仏の恩に報いるためには、自分の身を苦しめ、自分を犠牲にして、法を弘め、その法の光によって全世界を照らしだすこそが何ものにも勝る供養となる。

焼身供養のほんとうの意味は、自分がどんなに苦しくとも教えの通りに修行しその教えを世に弘めその教えの光によって世の中を照らしだそうということなのである

法の供養とはただ教えを弘めることではない。自分自身の修行と完成をほったらかしにして、ただ教えを弘めることは、法の供養にはならないのである。自分の身を苦しめて、世の中を明るくしてゆく、それこそが第一の布施(ふせ)なのである。法を弘めることができれば、仏の心が世の中にゆきわたることになる。これこそ仏がいちばん喜ぶことである。だからこそ法の供養が最上の供養となるのである。


次回につづく。


法華経の入手の仕方や方法は

※くわしくは、白蓮堂のホームページをご覧ください(^_^)v
 
↓↓

↓↓

法華経と共に! 白蓮堂 
http://www3.hp-ez.com/hp/magokoro18
 


第23章 薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)その1



2017 2 6 1
法華経の教えを理解することはできても、実行することはむずかしい。


◎教えを実行すること ......... 実例を示す教え

「法華経」は「嘱累品」(ぞくるいほん)第22までで教えが完成し、ここで一段落ついたのであり、「嘱累品」まで読めば「法華経」の教えを理解することと、それを実行することの大要はすべてわかるのである。それならばどういうわけで 「薬王菩薩本事品」(やくおうぼさつほんじほん) 第23章から「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぼつほん) 第28章までが説かれたのであろうか。

それは教えを理解することはできても実行することはむずかしいからである。ただ教えを読んだり聞いたりしただけでは、なかなかわからないものである。そこで実例が必要になる。その実例とは、過去において「法華経」の教えを実行し修行してついに悟りを開いた人のことである。もちろん悟りを開いた人には釈迦がいるわけであるが、もう少し身近に感じられる菩薩のほうがわれわれ凡夫にはふさわしい

観音菩薩や、この薬王菩薩の話がわれわれにはよくわかり親しみを感じとることができる。このようなわけで、第23品以下で「法華経」の教えを実行した模範的な菩薩のことを説いたのである。

この「薬王菩薩本事品」は、薬王菩薩がどういうことを実行したかという物語なのである。その薬王菩薩は両腕に火をつけて燃やす燃灯供養(ねんとうくよう)を行なったのであるが、実際に燃灯供養を行った歴史上の人物もいた。これは「法華経」の「薬王菩薩本事品」に説かれた薬王菩薩の焼身供養の話が、多くの人々に信仰されていたからである。

次回につづく。


法華経の入手の仕方や方法は

※くわしくは、白蓮堂のホームページをご覧ください(^_^)v
 
↓↓

↓↓

法華経と共に! 白蓮堂 
http://www3.hp-ez.com/hp/magokoro18
 


第22章 嘱累品(ぞくるいほん)その6



2017 2.10.3
教えを弘める使命感を仏ご自身から授かったことで、身がふるえるぐらい大いなる喜びに包まれた。


◎大いなる喜びとは

たくさんの菩薩たちは、仏がこのようにお説きになったことを聴いて、みな大いなる喜びに包まれたのであった。命がけで教えを弘めようと言われて、たいへんに喜んだ菩薩たちの体には、その喜びが満ち溢れた。仏に向かって恭(うやうや)しく頭をたれ、合唱して言った。「世尊の教えの通りお心持ちにそむかないようにしっかりと実行いたしますどうぞご心配下さいますな」 と。菩薩たちは、仏の前でその実行を約束したのであった。しかも同じ約束を三度声を出してくり返して言ったのであった。末世(まつせ)の世の中になっても力を合わせて教えを弘めるから、決してご心配には及びませんと言ったのである。

この菩薩たちのりっぱな返事を聞いた仏は、これならば末法(まっぽう)の世の中になっても教えが弘まることはまちがいないと確信をもった。そこで四方八方から来てここに集まってきていた分身(ふんじん)の仏を、それぞれの国に帰らせようとして、「皆さん、めいめいのお国にお帰り下さい多宝仏(たほうぶつ)の塔も元通りにして下さい」 と言われた。分身(ふんじん)の仏たちは霊鷲山(りょうじゅせん)において「法華経」 が説かれるので、いろいろな国から集まってきていたが、教えを弘めにそれぞれの国へ帰ることになったのである。

仏のお言葉を聞いた数限りのない分身(ふんじん)の仏や、多宝仏(たほうぶつ)や上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)などのたくさんの菩薩、それから舎利弗(しゃりほつ)などの声聞(しょうもん)、一切の世間の天、人、阿修羅(あしゅら)などもみなが心から喜んだのであった。仏は教えが弘まることが確信できたので、心から喜んだのは当たり前であるが、仏の智慧、真の悟りの教えを受けた分身の仏、多宝仏やたくさんの菩薩たちも、この尊い教えがわかったこととその教えを弘める使命感を仏ご自身から授かったことで身がふるえるぐらい大いなる喜びに包まれたのであった。仏を中心とするすべての喜びは、この娑婆世界が喜びの国土である浄土になったことを示している

「法華経」の教えを聴聞しようとして仏の分身(ふんじん)や菩薩や声聞や、ありとあらゆる人たちや、天、人、阿修羅までもが、霊鷲山に集まってきたが、どんな人でも仏に成れるということを聴かされて大いなる喜びをもったのである。このような真理がわかったことで「法華経」 の序品(じょほん)からの一大ドラマはこの「嘱累品」で終わりにしてもよいのであるが、ただ教えがわかったということを弘めよ、と言われたことだけでは、まだ充分にわかったことにはならない。頭でわかっただけでなく、「法華経 を信仰しようというエネルギーを沸きたたせるためには、「法華経の教えによって人々を救った菩薩の実際のはたらきを示す必要があるこんな菩薩がおられて法華経 の教えを弘めて人々を救ったという事実を示すことが大切である。そこで「薬王菩薩本事品」(やくおうぼさつほんじほん) 第23以下の諸品が説かれるのである。

次回から第23章 「薬王菩薩本事品」(やくおうぼさつほんじほん) に入ります。


法華経の入手の仕方や方法は

※くわしくは、白蓮堂のホームページをご覧ください(^_^)v
 
↓↓

↓↓

法華経と共に! 白蓮堂 
http://www3.hp-ez.com/hp/magokoro18
 


第22章 嘱累品(ぞくるいほん)その5



2017 2.3
だんだん教えを実行してゆくと、大いなる喜びが心の中から湧きおこってくるようになる。


◎教えを実行するとは........... 示教利喜(じきょうりき)

つづいて経文は未来において、もし善男子(ぜんなんし)、善女人(ぜんにょにん)があって、如来の智慧を信じる者があるならば、その人々のために「法華経」を説いて、その教えを知らせなければならないと説く。それはすべての人に仏の智慧を得させるためである。しかし末法(まっぽう)の世の中になると、如来の智慧、すなわち永遠の真理を信じてくれる者ばかりではない。このような末法の時代にはどうしたらよいのか。もし人々が絶対の真理を信用しなかったときには、

当(まさ)に如来の余(よ)の深法(じんぽう)の中(なか)に於(お)いて、示教利喜(じきょうりき)すべし。

としなければならない。「法華経」の教えをどうしても信用しない者には、仏が説いた他のお経の教えでよいから、方便(ほうべん)として説き示せばよいというのである。「如来の余の深法」 の中からその人に適する教えをまず説き示しなさいと言うのである。しかも教えの説き方は「示教利喜」(じきょうりき)でなければならない。示教利喜とは人にものを教える順序である

」(じ)とは教えの大体のことを示すのである。仏教入門の講義でも、まったく仏教を知らない人に説くときも、仏教とはどういうものであるかの大体をまず簡単に示しておく必要がある。仏の教えとはこういうものだという輪郭を示すことである。

次の段階が「」(きょう)である。だんだんと細かいことを教えてゆくことである。だんだんと細部にわたって教えてゆくことが必要である。武道や芸道では基本技である脚の運び方、体の動かし方などを鍛錬するのがこの時期である。

次には「」(り)である。ただ教わっただけでは利益(りやく)はわからない。自分が教えを実行するとき、はじめて利益がわかってくるものである。

最後の「」(き)とは、だんだん教えを実行してゆくと大いなる喜びが心の中から湧きおこってくるようになることである。ありがたいな、やってよかったな、という気持ちになる。物質的に報いられるわけではなくても、人間は一つのことを実行してゆくと大きな喜びが湧きおこってくるものである。ありがたい、と感じてきたら「示教利喜」 の教えが守られたことになる。

どんなことをするのでも、ありがたいと感じて行うことは人間としていちばん大切なことです。どんな小さなことでも、ありがたいと感じながら行うことが宗教心なのである。「法華経」の教えがわからない人は仏典の中のどんな教えでもよいからまず学ぶことである。そのうちにだんだんと「法華経」を学んでみようという気持ちがおこるものである。

このように「示教利喜」できるようになれば、「(すなわち)(こ)れ已(すで)に諸仏(しょぶつ)の恩(おん)を報(ほう)ずるなり」 となる。示教利喜して教えを実行することに大いなる喜びが感ぜられるようになれば、それこそ教えを施してくれた仏に対する報恩なのである。仏の恩に報いる最高の道は示教利喜して、「法華経の教えを弘めることなのである。なにも仏に花や食事を供養することではない。真の報恩行(ほうおんぎょう)は教えを弘めることにほかならない。


次回につづく。


法華経の入手の仕方や方法は

※くわしくは、白蓮堂のホームページをご覧ください(^_^)v
 
↓↓

↓↓

法華経と共に! 白蓮堂 
http://www3.hp-ez.com/hp/magokoro18
 


プロフィール

白蓮の香り

Author:白蓮の香り
白蓮堂のブログにご訪問ありがとうございます。神界、霊界、人間界(魂.心.肉体)は綿密に繋がっています。少しでも多くの人々に真実を知っていただきたく思い仏教の中での最高峰の経典、「法華経」をご紹介させていただきます。私(渡辺西洲)が勧める¨本物の法華経¨と出遭えたなら、あなたに、奇跡が起きます! 一人でも多くの人にご縁がありますように ....... (合掌)

カテゴリ
最新記事
訪問者
カレンダー
01 | 2017/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 - - - -
ランキング
ことわざ
Powered by www.seiku.net
白蓮堂からのことば!
仏像
今日の時事英語
トライしてみて!
誕生日占い
相性占い!
QRコード
QR